蜀犬 日に吠ゆ

2016-08-08

[][]福音館版『アラビアンナイト』 08:17 はてなブックマーク - 福音館版『アラビアンナイト』 - 蜀犬 日に吠ゆ

 定番、というのが好き。「とりあえず抑えとけ」とか「入門編」などという言葉に弱い。

 性格が飽きっぽいので何にでも*1食いつき、知能はたいしたことないので深く追求するのは苦手。

 読書に関しては、こういう事情なので「印象に残った本」だの「若い人に勧める本」だのを質問されるのは苦手です。自分の興味のあるところを、好きに読んだらいいんじゃないの? と考えてしまうから。この間はおすすめの本に、なんて答えたっけか、、、(好きな作家は星新一とミヒャエル・エンデです、と答えたような気がします。当然こんなのも日替わり月替わりです。)

 まあそれはさておき、好きな人がとりあえずのとっかかりにするくらいの部分で十分満足するので、子ども向けの文学全集みたいのは重宝するのです。今回は、『アラビアンナイト』

    • アラビアン・ナイト
    • もくじ
      • 漁師と魔神……9
      • 黒島の若い国王の身の上話……43
      • アリ・ババと四十人の盗賊の話……69
      • アジブ王の物語……135
      • アラディンと魔法のランプ……165
      • コダダードと兄弟たちの物語……335
      • ものいう鳥と歌う木と金色の水……385
      • 船乗りシンドバットの物語……473
    • あとがき
ケイト・D・ウィギン/ノラ・A・スミス編 坂井晴彦訳『アラビアンナイト』福音館書店

 こうしてみますと、やはりアラディンとシンドバットは外せないのですかね。シェへラザートは省略されてしまっています。あとがきでは、

    • あとがき

 この物語には、およそ二百六十以上の話がふくまれています。そんなにたくさんの、おまけに、話の内容も登場人物も、時も所もちがう話を、一冊の本にまとめるためには、話と話の間をうまくつなぐ仕掛けが必要になります。そこで、この本の場合には、全部の話を、一人の語り手が、毎晩語りつづけるということにしたのです。その語り手は、シェヘラザートという若い女性で、聞き手は、ペルシャの王さまということになっています。

 (中略)

 このような仕掛けは、たくさんの、それぞれ内容がちがう話を一つの本にまとめるには、効果的な方法ですが、児童向けの本として、ごくわずかな物語だけを読んでもらう場合には、かえってわずらわしくなりますので、省略するのがふつうです。

ケイト・D・ウィギン/ノラ・A・スミス編 坂井晴彦訳『アラビアンナイト』福音館書店

 なるほどねえ。

*1:もちろん限度はあります

2015-12-30

[][]「曹操にたいする評価について」 22:22 はてなブックマーク - 「曹操にたいする評価について」 - 蜀犬 日に吠ゆ

 曹操の善玉悪玉に関して

補説 1 曹操にたいする評価について

 中国の古典劇における曹操は顔を白くぬってあらわれる。白ぬりは姦悪の役柄である。曹操のイメージは悪く、三歳の子どもでさえも彼をひどく憎んだと現代中国の歴史学の大家郭沫若氏はいう。しかし曹操にたいする評価はそれでもって一貫してきたわけではない。

 曹操評価の基準というべきものの一つに正統論がある。つまり、魏と蜀漢のいずれを正統王朝として認定するかという問題が曹操評価に関わってくるのであるが、正統論は時代状況によって大きな影響をうける。晋は魏の禅譲を受けたから、西晋時代の論者は魏を正統とみなす。陳寿の『三国志』が魏を本紀であつかい、呉・蜀の君主を列伝のなかであつかっているのはその代表例であるが、彼は曹操に「非常の人、超世の傑」という肯定的な評価を与えている。

だが、伝統的な政権の所在地である河北を非漢民族にうばわれてみずからの正統性に疑義が生じ、かつての呉・蜀と類似した立場に置かれた東晋では、一転して蜀漢の正統性が主張される。東晋の人習鑿歯(しゅうさくし)は『漢晋春秋』をあらわして曹操を簒逆者(さんぎゃくしゃ)とみなし、他方、蜀漢の諸葛亮については「死せる孔明生ける仲達を走らす」エピソードなどをあげてその軍事的天才ぶりを称揚し、孔明の軍略家としての資質に疑問を投げかけた陳寿とはことなる像を描いているのである。

同様のことは宋代にもみられる。北宋では魏正統説が中心であった。司馬光は、天下統一がなされなかったゆえに魏を完全に正統とは認めないものの、『資治通鑑』では実質上魏を正統としてあつかっていて、曹操のとらえかたも肯定的であるし、蘇軾の、「赤壁の賦(ふ)」は曹操を英雄としてとらえている。いっぽう、南宋では河北をうばった金を魏に、、みずからを蜀漢に比定する考え方がおこなわれる。そして朱熹(朱子)が『資治通鑑綱目』において蜀漢を正統としたことは、正統論の帰結を定めたのである。

窪添慶文「三国の政治」『中国史2 三国~唐』山川出版社

2015-04-19

[][][][][]丸谷才一「不文律についての一考察」『腹を抱へる』文春文庫 15:47 はてなブックマーク - 丸谷才一「不文律についての一考察」『腹を抱へる』文春文庫 - 蜀犬 日に吠ゆ

 丸谷先生の読み物(コラム?短評?)選集が二冊本で出ました。

 欲を言はせてもらへば、「膝を打つ」のはうも歴史的仮名づかいの表題がよかつた。文は人なり、といふなら仮名づかいは多分に丸谷才一の個性であつたのだ(と、おもひません?)。

 文庫は結構読んだはづですが、家の本棚では散逸してをりまして、今回の採録で(あ、読んだことある)という話も手元になかったり、(へえ、知らなかつた)といふやうな話は何遍も読んだ文庫本に入つていたり。ああ、人の記憶の何とはかなきことよ。じつはと申せばさきおとついまで読んでゐた『膝を打つ』のはうはもう所在不明だつたりします。

 なので、なるべくおもしろい話は本をなくすまへに書き留めておきたい。また買えばいいんですけど。

 イチロー選手が大量得点差で勝つてゐる状況で盗塁し、大リーグの精神に悖る、とか何とか言はれた話から、不文律について。

不文律についての一考察

 その、不文律にすべきことを成文法にしたため変なことになつた好例がわが国にあります。これはをかしな法令の最たるものとして有名である。わたしはこのことを笠松宏至さんの論文で知つたのですが、ちよつと紹介しませう。

 御成敗式目といふのは鎌倉時代の法典で、わづか五十一ヶ条より成る。そのなかの一条に悪口の罪といふのがあつて、「闘殺の基、悪口より起る」(喧嘩して殺人になるのは悪口からはじまる)と書き出し、「軽い悪口」でも拘禁、「重い悪口」は流罪と定めた。これはどうやら、面と向かつての悪口を念頭に置いてゐる条文らしいのですが(原文すこぶる難解、よくわからない)、うーん、これはすごいですね。流刑地がたちまち満員になりやしないかと心配である。

 さらに、法廷内での悪口は、当該訴訟「有理」(筋道が通つてゐる)のときは敗訴になり「無理」(道理にはづれてゐる)のときは没収刑といふことに決められてゐた。

 悪口が刑事罰の対象になるなんてことは、日本中世の武家法では極めて珍しいのださうで、このせいでお前は悪口を言つたぞと人をおどしたり、他人の自由や財産を奪ふ理由にしたりしたといふ。

 とりわけひどいのは法廷内の悪口で、何しろ悪口を言つたほうが敗訴と決めてあるのだからいちいち相手の言葉尻をとらへて悪口だ、悪口だ、俺は悪口を言はれたぞと言ひたてた。単に法廷内の言説だけでなく、訴陳状の文言についてもこれは悪口だと騒いだといふ。それはさうだらうな。相手が悪口を言つたことにすればこつちが勝つのだもの。ぜつたい言はせようとするよ。あるいは、言はれたことにしようとするよ。なんだか滑稽でもあるし、哀れでもある。

 そのいろいろな珍談は、『中世の罪と罰』(東京大学出版会)所収の笠松さんの論文で読んでいただくとして、この悪口罪なんか、成文法にしたせいで、をかしなことになつたのである。他人の悪口なんか面と向かつて言はないのが武士のたしなみといふ不文律で充分なのだ。立法者の北条泰時は武士たちの分別を信用してゐなかつたので、こんな失態を演じたのだらう。

丸谷才一『腹を抱へる』文春文庫
中世の罪と罰

中世の罪と罰

2015-04-07

[][][]パリの爆笑 21:40 はてなブックマーク - パリの爆笑 - 蜀犬 日に吠ゆ

 だからこの構図は何なのか!

asin:B00NEG8MEI

2015-04-06

[][]リトルスターウォーズのポスターが 22:13 はてなブックマーク - リトルスターウォーズのポスターが - 蜀犬 日に吠ゆ

 狂おしいほどに好き。

 作品ではもっと好きなのもありますが、ポスターで言うならリトルスターウォーズは、理屈なしに好き。

2015-02-09

[][][][]十字軍研究の今 16:51 はてなブックマーク - 十字軍研究の今 - 蜀犬 日に吠ゆ

『西洋中世史研究入門』名古屋大学出版会より

(1)十字軍運動
十字軍とは何か

特に日本においてのことであるが、「十字軍とは、聖地エルサレムの奪回を目的としたキリスト教徒の軍隊であり、7回ないし8回行われたが、徐々に当初の宗教的目的が薄れて最終的には13世紀にその終焉を迎える」といった類の教科書的記述を十字軍の理解の前提にしないことが必要である。

『西洋中世史研究入門』名古屋大学出版会

 次に世界史の教科書が大きく変わるとすればこのあたり、らしいです。

(1)十字軍運動
十字軍とは何か

複雑極まりない十字軍研究の現状においても、概ね次の点では共通見解を得ていると言えよう。十字軍の本質は贖罪にあり、十字軍に「宗教的、政治的、経済的云々」と現代的価値観に基づいた評価を下すのは歴史学的には意味をなさないこと、十字軍とは連続的な運動であり、「第○回」という表現は便宜的に付けられているに過ぎないこと、1274年のリヨン普遍教会会議に十字軍運動の前・後期の分岐点を置くことなどである。教科書的記述の問題点については、八塚春児(1994*1)でも指摘されており、教科書の記述は書き改められるべき時期を迎えているのではなかろうか。

『西洋中世史研究入門』名古屋大学出版会

 というご意見もわかりますが、十字軍の研究が複雑化してテーマも多岐にわたって広がり続けている現状では、十字軍の記述を改める時期とは言いがたいのではないでしょうか。総括的な研究成果が出されてから教科書の記述を書き改めるのがよいかと思われます。

*1:八塚春児(1994)「第1回十字軍の招集」『歴史と地理』471