蜀犬 日に吠ゆ

1919-12-25

[][]十二月二十五日 本当の親愛は、神の恩寵と慈愛の反映 はてなブックマーク - 十二月二十五日 本当の親愛は、神の恩寵と慈愛の反映 - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

 本当の親愛は、神の恩寵と慈愛の反映である。このような神の慈愛は人間のうちに宿ることができ(テトスへの手紙三の四)、また人間の肉体をさえ(とくにその眼の表情において)あまねく輝かすので、この神的なものの反映は、ほかの人たちにも気づかれるほどである。そのようなことはモーセについても(出エジプト記三四の二九・三〇*1)さらにキリストについても、語られている。多少これに似たことは、わたしなども、残念ながらまれな例だが、二、三の人について認めることができた。

 これに比べて、それ以外のあらゆる親愛や鄭重さは、ただこれのわざとらしいまねごとに過ぎず、とうてい同じような感銘を与えることはできない。

 上からの慈愛が一番はっきり見られるのは、気だてのよい子どもとか、非常に年老いた人とかである。またそれは、病人のある者にほとんどこの世ならぬ美しさを生み出すこともある。画家が使徒や聖者を描くときに用いる円光は、この神からの慈愛をいくらか暗示しようとするものである。もちろん、顔そのものにそのような表情を与えることができたら、一層よいであろうが、しかしたいてい、そういう表情はまるで欠けている。

 もっとも有名な聖母像のなかでさえ、ただわずかに、「システィナの聖母」(ラファエル作)と、ムリリョ(スペインの宗教画家)の「聖母昇天(アスンタ)」の絵だけが、いくらかこのような表情をしめしている。とはいっても、次のような理由から、それは必ずしも本当の慈愛の表情とはいえない。というのは、ひとは一度この上からくる聖化の輝きを見たならば、もはや決して忘れないものだが、しかしそのような聖化の輝きは、敬虔な表情だとか、または、そういう気持をあらわすような仰ぎ見る恍惚とした眼差しとかではなくて、まだどんな画家の絵筆も決してえがきえなかったような、あたたかな、この上なく光にみちた慈愛の全く自然な表情だからである。(デフレッガー*2は彼のわりに小さな絵の一つに、おそらくそうしたものを表しえたといえよう。その中の庶民の一老婆の眼差しにそれが見られるのだが、幼な児イエスを抱いた彼の著名な聖母像の眼差しはそうではない。)

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第二部 岩波文庫

*1:「モーセはそのあかしの板二枚を手にして、シナイ山から下ったが、その山を下ったとき、モーセは、さきに主と語ったゆえに、顔の皮が光を放っているのを知らなかった。アロンとイスラエルの人々とがみな、モーセを見ると、彼の顔の皮が光っていたので、彼らは恐れてこれに近づかなかった。」

*2:フランツ・フォン・デフレッガー(一八三五―一九二一)、オーストリアの画家

1919-12-24

[][]十二月二十四日 キリスト教がただ外的な方法でふたたび改革される はてなブックマーク - 十二月二十四日 キリスト教がただ外的な方法でふたたび改革される - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

 キリスト教がただ外的な方法でふたたび改革されるということ、たとえば、フランス革命と帝政崩壊の後で、シャt-ブリアン*1、ジョセフ・ド・メストル*2、フォン・クリュデナー夫人*3らによって、フランスやまた一部は他のヨーロッパでも、企てられたようなことは、おそらくもう二度とは起らないであろう。現在では、教会が問題ではなく、真の、生きたキリスト教ということが問題なのである。しかしこの両者をひき離すのは、なまやさしいことではあるまい。また、この改革を実行しうるような人びとは、まだ当分見あたりそうもない。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第二部 岩波文庫

*1:シャトーブリアン(一七六八―一八四八)、フランスの文学者、政治家。

*2:メストル(一七五四―一八二一)フランスの国家哲学者、政治家、中世のキリスト教への復帰をとなえた。

*3:クリュデナー夫人(一七六四―一八二四)、ドイツ敬虔主義者、著作家。

1919-12-23

[][]十二月二十三日 キリスト教が生活全体に浸透していないところでは はてなブックマーク - 十二月二十三日 キリスト教が生活全体に浸透していないところでは - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

 ヴィネー*1はあるときこう言った、「キリスト教が生活全体に浸透していないところでは、そのまわりに空虚をひろげてきた。キリスト教社会の懐ろにいだかれながらキリスト教的でない人は、心のなかに砂漠をもっている」と。このやや一般的意味で述べられた思想については、しばらく触れないことにしよう。

 ゲーテ崇拝者ばかりでなく、古典的教養をもつ多くの人たち、なかでも歴史家たちは、このヴィネーの思想の絶対性について異論をとなえるであろう。しかしこの思想は、見せかけの信仰をもつキリスト者その人にたいしては、おそらくきわめて正しいものだろう。というのは、その人のキリスト教は、彼の生活全体を満たすことなく、ただある種の外的形式をまもる教会主義であったり、または、単になんらかの偏狭な種類のキリスト教に所属することにすぎないからだ。こんな場合には、しぜん社会的教養を欠き、しかも同時に、より深い内面的な教養をも欠くことになる。たましいが高い理想と活溌にとり組んでいなければ、そのたましいに真理の霊がたえまなくはたらくとは考えられない。単なる神学的博識だけでは、その十分なおぎないとならないことは、教でも折にふれて、たやすく認められる通りである。

 マタイによる福音書二三の一三。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第二部 岩波文庫

*1:アレクサンドル・ヴィネー(一七九四―一八四七)、すいすのプロテスタント神学者

1919-12-22

[][]十二月二十二日 あるサバティストにあてて はてなブックマーク - 十二月二十二日 あるサバティストにあてて - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

 あるサバティスト(土曜日を安息日としてまもるキリスト教の一派の人)にあてて。

 あなたの言われることは、原則的にはもっともだと思う。キリスト教界も、安息日(聖土曜日)を休日としてまもる方がおそらくよかったかもしれない。

 しかし、キリスト教界は、そうはしなかった。そのわけは、日曜日を休日とすることで、われらの主の復活をあらゆる思考の前面に押し出そうとしたためばかりでなく、多分そのほかにも、ユダヤ教徒からはっきりみずからを区別し、外形的にも限界を立てておくためでもあり、また、安息日を固守することについてのユダヤ教徒の形式主義から、根本的に離れるためでもあった。じっさい、主自身が、安息日に絶えず反対してきたので、彼に対するユダヤ教徒の憎悪は、このことからも、いくぶん説明ができるくらいである。

 なお、この安息の日を変えたために、神がキリスト教徒に対して十分な祝福をさし控えているとは、わたしには信じられない。十分な祝福があたえられないのは、たしかに、もっと多くの、もっと大きな原因がある。しかし、あなたがたが世の人のために、みずから実例を示して、その反対のことを証明しようと企てるのなら、それは全くよいことである。いつかサバティストたちが、あらゆる国で、うたがいもなく「地の塩」となって、最もよい人間、最もよい市民をぞくぞく生み出すようになれば、われわれもその手本に従いたいが、それまでは、まだ従うわけにゆかない。マタイによる福音書五の一四―一六・二〇、七の二・一六―二一。

 しかし、さしあたりわれわれは、はげしい労働にしたがう階級のため、とくにその階級の婦人たちのために、せめて土曜日の午後なりとも、彼らが労働から離れて、彼ら自身とその家族のために自由になれるよう、努力することにしよう。そうすれば、もうこの日の夕方から、仕事日の心労をのがれて、こころ晴れやかにあすの聖日を待つことができるであろう。こうなれば、土曜日の午後もまた、少なくとも安息日の一部分となるわけである。というのは、安息日のことも、要するに、ただ時間数だけの問題ではないからである。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第二部 岩波文庫

1919-12-21

[][]十二月二十一日 人間はときおり、自分にできること以上に はてなブックマーク - 十二月二十一日 人間はときおり、自分にできること以上に - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

 人間はときおり、自分にできること以上に、あまりにも多くのことをしようとし、しかもそれにたいして多くの感謝をも求めたがる。エレミヤ書のなかのよい言葉(一七の五*1)がそれを禁じている。ひとは自分にできることをしなければならないが、次には、他人の感謝をあきらめることができなくてはならぬ。でなければ、そういう行いも一種の享楽欲であろう。人間は、相手が称賛を求めていると気づくやいなや、それをあたえたくなくなり、かえって、そのような讃美に無関心な他の人に対しては、それを山のように与えたがるものである。

 自分がよくなしうる以上のことをしようとせず、また、このような仕事のなかに自分の幸福を求め、かつ、見出す人こそ、最も立派に世を渡るものである。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第二部 岩波文庫

*1:「主はこう言われる、『おおよそ人を頼みとし肉なるものを自分の腕とし、その心が主を離れている人は、のろわれる』。」

1919-12-20

[][]十二月二十日 われらの主は、普通に認められているように はてなブックマーク - 十二月二十日 われらの主は、普通に認められているように - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

 ヨハネによる福音書一〇の一七・一八*1。われらの主は、普通に認められているように、その公けの活動の第二期に初めて、ではなくて、おそらくかなり早い時期からすでに、自分の早い死と復活の内的確信を得ていたように思われる。主がゲツセマネと、十字架上でこころ臆したのは、いずれもこの確信が、一時彼を見捨てそうになったからであった。しかし、そのときすぐ、この確信がまた彼のこころのなかで優勢をとりもどしたのである。それ故、ただ弟子たちばかりでなく、主においてもやはり、復活がなければ、キリスト教の成立は心理的に説明できないであろう。ある偉大なことのために自分の生命を犠牲にしたものは、ひとりキリストだけではないが、しかし、その活動の初めから、あらかじめ、それをすっかり明瞭に自覚していたのは、おそらく、ただキリストだけであろう。

 もし真のキリスト教によって、だれでもはるかに幸福な生活に達することができるとわかれば、ほとんどすべての人がキリスト教を信じる決心をするであろう。しかし、その際、どれだけ多くのことを耐え忍ばねばならないか、その全部がいっぺんにわかっったら(しかも、それに対して、神から授けられる力を、前もって知ることも、おしはかることもできないのだから)、ほとんどだれひとりこれを信じるよう決心するものもあるまい。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第二部 岩波文庫

*1:「父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。だれかがわたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父を授かった定めである。」