蜀犬 日に吠ゆ

2010-06-16

[][][][]子張第十九を読む(その16) 19:39 はてなブックマーク - 子張第十九を読む(その16) - 蜀犬 日に吠ゆ

仲尼は焉にか学べる

 子張第十九(472~496)

493 衛公孫朝。問於子貢曰。仲尼焉学。子貢曰。文武之道。未墜於地。在人。賢者識其大者。不賢者識其小者。莫不有文武之道焉。夫子焉不学。而亦何常師之有。

(訓)衛の公孫朝、子貢に問うて曰く、仲尼は焉(いずく)にか学べる。子貢曰く、文武の道、未だ地に墜ちず、人に在り。賢者は其の大なる者を識り、不賢者は其の小なる者を識る。文武の道あらざることなし。夫子焉にかまなばざるあらん。而して亦た何の常師(じょうし)かこれ有らん。

(新)衛の公孫朝が子貢に尋ねた。孔子は誰から学問を受けられましたか。子貢曰く、周の文王、武王が残した道は全く滅びたのでなく、人民の間に保存されています。賢者はその中から大きなものを発見し、劣った者はその中の小さいものしか見出せない、という相違はありますが、どれも文武の道の保存されたものでないものはありません。先生がどうしてそれを学ばずにおくものでしょうか。従って別に誰を師匠と定めた人はありませんでした。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 孔子は文、茲にあらずやと豪語するなど中華文明の正統な継承者であることを誇っていますが、それは、文王武王の礼楽(本当は堯舜禹と言いたいのでしょうけれども)が散逸してしまったのをまとめ直したのは自分であるという自信があったから言えた台詞なのでしょう。ですから、孔子は誰か一人の学説を継承して、次の世代にバトンタッチするだけの存在ではなかったのだと、そういうことですね。

 子貢、やはり孔子先生崇拝が尋常でない。

2010-06-15

[][][][]子張第十九を読む(その15) 19:14 はてなブックマーク - 子張第十九を読む(その15) - 蜀犬 日に吠ゆ

君子の過ちや、日月の食の如し

 子張第十九(472~496)

492 子貢曰。君子之過也。如日月之食焉。過也人皆見之。更也人皆仰之。

(訓)子貢曰く、君子の過ちや、日月の食の如し。過てば人皆なこれを見る。更むれば人皆これを仰ぐ。

(新)子貢曰く、諸君は過失を犯した時には、日月の蝕のようにしてもらいたい。過失があれば万人がそれに気付く。過失を改めた時はまた万人が皆なそれに気付いて尊敬する。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 こそこそしないことが大切だ、ということでしょう。そうしてきちんと過ちを認めて改めよ、と。失敗をしないことなどできないのですから、過失を犯してしまうこと、犯してしまったあとのことまで考えておきましょう、というのが儒学の姿勢。

2010-06-14

[][][][]子張第十九を読む(その1421:29 はてなブックマーク - 子張第十九を読む(その14) - 蜀犬 日に吠ゆ

紂の不善

 子張第十九(472~496)

491 子貢曰。紂之不善。不如是之甚也。是以君子悪居下流。天下之悪皆帰焉。

(訓)子貢曰く、紂の不善は、是の如くこれ甚しきにあらざりしなり。是を以て君子は下流に居ることを悪む。天下の悪、皆なこれに帰すればなり。

(新)子貢曰く、紂の暴政といっても、実際は世間で言われるほど甚しいのではなかった。だから諸君も吹き溜りのような場所を避けておらぬがよい。天下の悪名がみなそこへ集ってくるかもしれぬ。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 権力をもった人の悪行よりも、それに取り入る人の方がよりタチが悪い、というのはよくある話ですが、だからこそ、君子たるものはその地位にすり寄ってくる者を見極める能力をこそ磨かねばならず、その権勢を謳歌している暇はないわけです。ダモクレスの剣です。

2010-06-13

[][][][]子張第十九を読む(その12) 19:58 はてなブックマーク - 子張第十九を読む(その12) - 蜀犬 日に吠ゆ

其の父の臣と父の政を改めざる

 子張第十九(472~496)

489 曾子曰。吾聞諸夫子。孟荘子之孝也。其他可能也。其不改父之臣。与父之政。是難能也。

(訓)曾子曰く、吾れはこれを夫子に聞けり。孟荘子の孝や、其の他は能くすべきなり。其の父の臣と父の政を改めざるは、是れ能くし難きなり、と。

(新)曾子曰く、私は先生から聞いたことがある。孟荘子の孝行は有名だが、大ていのことは真似ができる。ただ父の使ってきた側近と、父のやってきた方針を改めることがなかったのは、真似のできぬ点だ。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 ふつう三年父の道を改むることなし以て冢宰に聴くこと三年の孝行は難しい、と解釈しますが、しかしそれが出来なければ君子ではないので、難しくてもやらなければなりません。

 むしろ私などは、夫子が「(オレは父親に早く死なれて)孝行をすることができなかったよ」と愚痴ったとかそういう話を捏造したい。

2010-06-12

[][][][]子張第十九を読む(その11) 19:50 はてなブックマーク - 子張第十九を読む(その11) - 蜀犬 日に吠ゆ

人未だ自ら致す者あらざるなり

 子張第十九(472~496)

488 曾子曰。吾聞諸君子。人未有自致者也。必也親喪乎。

(訓)曾子曰く、吾れはこれを夫子に聞く。人未だ自ら致す者あらざるなり。必ずや親の喪か、と。

(新)曾子曰く、私は先生に聞いたことがある。人間はなかなか自分の全力を出し尽くすということの出来ぬものだ。もしありとすれば、自分の親の葬式の場合だろう、と。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 とするなら孔夫子は、個人が全力を尽くすことが出来ないのは社会的要因に基づく、とお考えだったのでしょうか。親の葬式であれば、体面や外聞を気にすることなく感情を表出できますからね。

 これには、私は一部賛成、一部反対。私たちちっぽけな人間は、他にも多くの製薬の中で生きていると思います。たとえば、その日の体調が悪くて全力が出せない、とかね。

 しかし、吉川先生の解釈を読むに、私の誤読でした。

人間の行為のうち、自力だけで究極まで行けるものはない。必ず学問なり教養の助けを借りて、はじめて究極まで行ける。「致」はやはり究極の意。

 しかしこの原則にはずれるものがある。ほかでもない、親の喪における態度である。自己の内心から湧き起こる悲哀、それのみによって究極の完全な態度に到達できる。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

 なるほど。しかしそれだと、「そんなことは禽獣にでもできる」という解釈になってしまい、一つの理窟ではありますが儒教の原理原則からははずれる解釈にもつながりかねませんかね。

2010-06-11

[][][][]子張第十九を読む(その10) 19:28 はてなブックマーク - 子張第十九を読む(その10) - 蜀犬 日に吠ゆ

吾が友の張や、能くし難きを為す

 子張第十九(472~496)

486 子游曰。吾友張也。為難能也。然而未仁。

(訓)子游曰く、吾が友の張や、能くし難きを為す。然れども未だ仁ならず。

(新)子游曰く、私の兄弟弟子の子張は、人の出来ないことをやってみせる。しかし最上の人格者、仁者と言おうとすればまだ不足がある。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 まあ孔夫子を基準にしたら誰でも不足でしょうけれども、このライバル意識の強さは、ただごとではない。子貢はこうした個性を、角を矯めることを避けて自由にさせたのでしょうけれど、何も論語に載せなくても。



堂堂たるかな、張や

 子張第十九(472~496)

487 曾子曰。堂堂乎張也。難与並為仁矣。

(訓)曾子曰く、堂堂たるかな、張や。与に並んで仁を為し難し。

(新)曾子曰く、子張は態度が堂々として立派なものだ。しかし一緒に修養に励みたいとは思わぬ。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 前章を読んで、これはてっきり孔子教団の正統を継いだ曾子が、ライバルを遠回しに批判するためお互いの確執を論語に載せたのではないかと疑いましたが、曾子の悪行もきっちり採録されているんですね。春秋の筆法、畏るべし。

*鄭注に「子張は容儀は盛んだが仁道に薄かったからだ」という。

金谷治『論語』岩波文庫

 とありますが、本当かどうかは分かりません。むしろ、堂々とした子張のそばでは小仁などかすんでしまうからなあ、というイヤミなのかもしれません。イケメンは得しやがって、くらいのひがみ。