蜀犬 日に吠ゆ

2010-08-27

[][][]孟子を読む 梁惠王章句上(その5) 19:39 はてなブックマーク - 孟子を読む 梁惠王章句上(その5) - 蜀犬 日に吠ゆ

仁者は敵なし

梁惠王章句上 凡七章

梁惠王曰、晉國天下莫强焉、叟之所知也、及寡人之身、東敗於齊、長子死焉、西失地於秦七百里、南辱於楚、寡人恥之、願比死者壹洒之、如之何則可、孟子對曰、地方百里而可以王、王如施仁政於民、省刑罰、薄稅斂、深耕易耨、壯者以暇日、脩其孝悌忠信、入以事其父兄、出以事其長上、可使制梃以撻秦楚之堅甲利兵矣、彼奪其民時、使不得耕耨以養父母、父母凍餓、兄弟妻子離散、彼陷溺其民、王往而制之、夫誰與王敵、故仁者無敵、王請勿疑

小林勝人訳注『孟子』上 岩波文庫
梁惠王章句上 凡七章

 梁の恵王曰く、晋国は天下焉(これ、是)より強き莫きこと、叟の知れる所なり、寡人の身に及び、東(ひがしのかた)斉に敗れて長子死し、西(にしのかた)地を秦に喪ううこと七百里、南楚に辱めらる、寡人之を恥ず、願わくは比死者(しするころまで)に壱たび之を洒がん、如之何せば則ち可ならん。孟子対えて曰く、地(とち)、方(しほう)百里ならんにも而ち以て王たるべし。王如し仁政を民に施し、刑罰を省き、税斂を薄くし、深く耕し易(と、疾)く耨(くさぎ)らしめ、壮者暇日を以て其の孝悌忠信を脩め、入りては以て其の父兄に事え、出でては以て其の長上に事えしめば、梃を制(ひっさ、掣)げて以て秦・楚の堅甲利兵を撻(う)たしむべし、彼(かれら)は其の民の時を奪い、耕耨(こうどう)しては以て其の父母を養うを得ざらしむれば、父母は凍餓し、兄弟妻子は離散すべし。(かくて)彼其の民を陥溺せしめんとき、王往きて之を征たば、夫れ誰か王と敵せん。故に(諺には)仁者は敵なしといえり。王請う疑うことなかれ。


 梁の恵王がいわれた。「先生もご存じの通り、わが晋の国は、以前は天下にならぶもののないほど強い国であった。ところが、わしの代になってから、まず東の方では斉に敗れて、太子の申は捕まって死んでしまうし、西の方では秦に領地を七百里も奪われ、そのうえ南の方では楚に敗戦の辱めをうけるという始末。わしは残念でならぬ。どうかわしの目の黒いうちに、ぜひ一度はこの恥をすすぎたい。さて、どうしたらよいものだろう。」孟子はお答えしていわれた。「たった百里四方の小国の君主でさえも、(政治次第で)天下の王者となることができます。(ましてや、この大国でならなおさらのこと。)王様がもし仁政を行って、刑罰を軽くし、税金の取り立てを少なくし、田地をば深く耕して草取りも早めにさせ、若者には農事のひまひまに孝悌忠信の徳を教えこみ、家庭ではよく父兄につかえ、社会ではよく目上につかえるようにさせたならば、一旦ことあるときには(武器などなくて)ただの棍棒だけでも、堅固な甲冑・鋭利な武器で身を固めた秦や楚の精鋭をもうちひしぐことができましょう。ところが、彼ら(敵国)はまったく正反対で、時を構わず(力役に軍事にと)人民をこき使い、濃厚に精をだして父母を養うこともできぬようにさせています。父母は飢え凍え、妻子兄弟はちりぢりばらばらです。いわば、彼らは人民を穴に突きおとし、水につけて溺れさすような虐政をつづけているのです。このとき王様がご征伐にゆかれたら、なんぴととて手向うものがありましょうや。諺にある『仁者に敵なし』とは、つまりこのことをいったものです。王様、どうか私の申すことをお疑いなさいますな。」

小林勝人訳注『孟子』上 岩波文庫

 ここで、東のかた斉国に敗れ太子申が殺される、というのは孫臏の手柄。

〈東斉に敗れて長子焉に死す〉前三四一年に、魏の将軍龐涓が太子申を奉じて、孫臏が軍師となった斉の田忌の軍に馬陵で大敗し、涓は戦死し、太子申は虜となった。

小林勝人訳注『孟子』上 岩波文庫

 あと、秦はこの頃商鞅の改革で上り調子。魏国ピンチ! なのでした。

2010-08-26

[][][]孟子を読む 梁惠王章句上(その4) 20:25 はてなブックマーク - 孟子を読む 梁惠王章句上(その4) - 蜀犬 日に吠ゆ

民の父母と為りて政を行い

梁惠王章句上 凡七章

梁惠王曰、寡人願安承教、孟子對曰、殺人以梃與刃、有以異乎、曰、無以異、以刃與政、有以異乎、曰、無以異也、曰、庖有肥肉、廐有肥馬、民有飢色、野有餓莩、此率獸而食人也、獸相食、且人惡之、爲民父母行政、不免於率獸而食人、惡在其爲民父母也、仲尼曰、始作俑者、其無後乎、爲其象人而用之也、如之何其使斯民飢而死也、

小林勝人訳注『孟子』上 岩波文庫
梁惠王章句上 凡七章

 梁の恵王曰く、寡人願安(ねが、願焉)わくは教えを承けん。孟子対えて曰く、人を殺すに梃を以てすると刃(を以てする)と、以て異なる有るか。曰く、以て異なるな無し。(曰く、人を殺すに)刃を以てすると政(を以てする)と、以て異なる有るか。曰く、以て異なる無し。曰く、庖(くりや)に肥肉有り廐に肥馬有りて、民に飢色有り野に餓莩(うえじにするもの)有るは、此れ獣を率いて人を食ましむるなり。獣相食むすら且(なお)人之を悪む。(況や)民の父母と為りて政を行い、獣を率いて人を食ましむるを免れざる、悪在(いすく)んぞ其れ民の父母たらんや。仲尼の「始めて俑を作れる者は、其れ後(裔)無からんか」と曰まえるは、その人に象(かたど)りて之を用いしが為なり、如之何ぞや、其れ斯の民をして飢えて死なしめんには。


 梁の恵王がいわれた。「できることなら、ひとつ先生のお話をお聞きしたいものだが。」孟子はお答えしていわれた。「棍棒で人をなぐり殺すのと刃物で斬り殺すのとでは、なにか違いがありましょうか。」王がいわれた。「いや、殺すことに違いはない。」孟子はいわれた。「それでは、刃物で人を斬り殺すのと政治が悪くて死に追いやるのとでは、なにか違いはありましょうか。」王がいわれた。「それも(殺すことには)、違いはない。」孟子はいわれた。「では、申しますが、いま王様の調理場には丸々としたうまそうな肉があり、お廐には肥えた元気な馬が飼われていますのに、一方人民はといえば、飢えて顔色が青ざめ、郊外には餓死者(の屍)がころがっております。これでは、獣どもをひきつれて人間を食わせているようなものです。獣同士の共食いでさえ、やはり人は憎まずにはおられぬものです。ましてや、人民の父母であるべきはずの王様が、獣どもをひきつれて人間を食わせているようなことでは、どうして人民の父母だなどといえましょう。孔子は『最初に俑(ひとがた)を造りだした人は、その子孫は(必ず天罰をうけて)断絶するだろう』と申しておりますが、それは余りにも人間そっくりに造って死者といっしょに埋葬したから、(いかにも残酷なので)これほどまで憎まれたのであります。(俑でさえもそうなのに)ましてや、生きた尊いこの人民をみすみす餓死させるようなこと(悪政)では、どうして許されましょうぞ。」

小林勝人訳注『孟子』上 岩波文庫

 トマス・モア『ユートピア』もこんな内容です。古代封建制か第一次囲い込みかの違いはあっても、悪政は何処も同じなのでしょうか。


 孔子の言葉は『礼記檀弓篇』である由。

梁惠王章句上 凡七章

三 俑、礼記檀弓篇、孔子謂為芻霊者善、謂為俑者不仁、不殆於用人乎哉。鄭玄(ていげん)は、「俑は偶人なり。面目機発(からくり)ありて人に似たり。」と注しておるが、殉死者のかわりに埋めたもので、からくりもあり顔・貌が人によく似た木の人形、すなわちひとがたのこと。古は芻霊といって草を結んだ人形を死者の棺に入れたが、後にはこの俑を使うようになり、やがてこれが端緒(きっかけ)となり、本当の人間が殉死する悪習をつくったといわれる。

小林勝人訳注『孟子』上 岩波文庫

 あいかわらず中国人は酷いですねえ。


 また、前三章とは異なり、梁の恵王がいきなり質問をし、孟子も前提無しに「棍棒で殺しますか、刃物でやりますか」などと物騒な話題ですが、これは三の「何ぞ人を刺して之を殺し、我には非ず兵なりと曰うに異ならんや」に対応していると朱子がいいます。

*朱子は、この章が前章にすぐ続けたことばだとみている。前章の最後の「我には非ず兵なり……王、歳を罪することなくんば、斯ち天下の民至らん」の意味がよくのみ込めないので、孟子にさらに説明してくれとたのんだのであるから、この見解は正しい。人を殺すのに刀で切り殺すのも杖でなぐり殺すのも、殺人に変わりはない。政治の誤りで人を殺すのも、殺人に変わりはない。この孟子の推論は正しい。孟子は同類でないものに類推を濫用すると非難されているが、これは三段論法の省略で、論理に合っている。

貝塚茂樹訳『孟子』中公クラシックス

 しかしまあ、たとえ話には一定の限界がありますから、注意が必要ですよね。

2010-08-25

[][][]孟子を読む 梁惠王章句上(その3) 20:25 はてなブックマーク - 孟子を読む 梁惠王章句上(その3) - 蜀犬 日に吠ゆ

五十歩を以て百歩を笑わば、則ち何如

梁惠王章句上 凡七章

梁惠王曰、寡人之於國也、盡心焉耳矣、河内凶、則移其民於河東、移其粟河内、河東凶亦然、察鄰國之政、無如寡人之用心者、鄰國之民不加少、寡人之民不加多、何也、孟子對曰、王好戰、請以戰喩、塡然鼓之、兵刃旣接、棄甲曳兵而走、或百歩而後止、或五十歩而後止、以五十歩笑百歩、則何如、曰、不可、直不百歩耳、是亦走也、曰、王如知此、則無望民之多於鄰國也、不違農時、穀不可勝食也、數罟不入洿池、魚鼈不可勝食也、斧斤以時入山林、材木不可勝用也、穀與魚鼈不可勝食、材木不可勝用、是使民養生喪死無憾也、養生喪死無憾、王道之始也、五畝之宅、樹之以桑、五十者可以衣帛矣、鷄豚狗彘之畜、無失其時、七十者可以食肉矣、百畝之田、勿奪其時、數口之家、可以無飢矣、謹庠序之教、申之以孝悌之義、頌白者不負戴於道路矣、七十者衣帛食肉、黎民不飢不寒、然而不王者未之有也、狗彘食人而不知檢、塗有餓莩而不知發、人死、則曰非我也歳也、是何異於刺人而殺之、曰非我也兵也、王無罪歳、斯天下之民至焉、

小林勝人訳注『孟子』上 岩波文庫
梁惠王章句上 凡七章

 梁の恵王曰く、寡人の国(政)に於けるや、心を尽せるのみ。河内凶すれば、則ち其の民を河東に移し、其の粟(こめ)を河内に移す。河東凶するも亦然す。隣国の政を察るに、寡人の心を用うるに如く者なし。(然るに)隣国の民少なきを加えず。寡人の民多きを加えざるは、何ぞや。孟子対えて曰く、王戦を好む、請う戦を以て喩えん。塡然として鼓うち、兵刃既に接(まじ)わるとき、甲を棄て兵を曳(す、擲)てて走(に)げ、或る(者)は百歩にして後止まり、或る(者)は五十歩にして後止まり、五十歩を以て百歩を笑わば、則ち何如。(王)曰く、不可なり、直百歩ならざりしのみ、是れ(五十歩の人)も亦走げたるなり。(孟子)曰く、王如し此れを知らば、則ち民の隣国より多からんことを望む無(勿)れ。(民を使うに)農事を違(うば、奪)わざれば、(五)穀勝(あ)げて食(くら)うべからず。數罟(さくこ)洿池(いけ)に入れざらしめば、魚鼈勝げて食うべからず。斧斤時を以て山林に入らしめば、材木勝げて用うべからず。穀と魚鼈と勝げて食うべからず、材木勝げて用うべからざる、是れ民をして生を養い死を喪(おく、送)りて憾(うらみ)なからしむるなり。生を養い死を喪して憾なから(しむ)るは、王道の始なり。五畝の宅、之に樹(う)うるに桑を以てせば、五十の者以て帛(きぬ)を衣るべし。鷄豚狗彘の畜、其の時を失うなくんば、七十の者以て肉を食うべし。百歩の田、其の時を奪う勿くんば、数口の家以て飢うるなかるべし。痒序(学校)の教えを謹み、之を申(ひきし、約)むるに孝悌の義を以てせば、頌白の者道路に負戴(にお)わず。七十の者帛を衣肉を食い、黎民(衆民)飢えず寒えず、然(如是)くにして王たらざる者は、未だこれ有らざるなり。狗彘人の食を食らえども、検(かいし、斂蔵(くらにおさ))むることを知らず、塗に餓莩(うえじにするもの)有れども、発(にぎわす、発振(くらをひらく))ことを知らずして、人死すれば、則ち我には非ず歳なりと曰うは、是れ何ぞ人を刺して之を殺し、我には非ず兵なりと曰うに異ならんや。王歳を罪するなくんば、斯ち天下の民至らん。


 梁の恵王がたずねられた。「わしは国の政治にはあらんかっぎりの苦心をしている。たとえば、河内の地方が饑饉のときには、(餓死者のでないように)移せるだけの人民を河東の地方に移して食べさせ、移せない老人や子どもや病人には食糧を運んでやる。河東の地方が饑饉のときにも、また同じようにしてやる。どうも隣国の政治を見るのに、そんなに人民のために苦心しているものは見当らぬ。それなのに隣国の人民がいっこうへりもせず、わしの人民がさっぱりふえもしないのは、いったい、どういうわけだろう。」孟子はお答えしていわれた。「王様は戦争がお好きでいらっしゃるから、ひとつ戦争でたとえて申してみましょう。ドンドンと進軍の陣太鼓がいさましく鳴りひびき、敵味方刀で斬りあいがはじまった(大事な)ときに、鎧を脱ぎすて(矛などの)武器まで投げすてて逃げだしたものがいました。百歩逃げたものもあれば、五十歩逃げてふみとどまったものもあります。五十歩しか逃げなかったものが、百歩逃げたものを、『この臆病者め』と笑ったら、いかがなものでございましょう。」(王はいわれた)「それはいかん。ただ百歩逃げなかっただけだ。逃げたことにはかわりはない。」(孟子はそこでいわれた)「王様、もしそれ(その道理)がお分りでしたら、隣国よりも人民のふえるのを望むわけにはいきますまい。すべて農繁期をさけて人民を使うようにすれば、穀物はとても食べきれないほどよくとれるものです。池や沼には目の細かい網を入れ(て幼魚を捕ったり)させなければ、魚やすっぽんの類はとても食べきれないほどよく繁殖するものです。秋と冬だけしか、斧や斤(まさかり)で木伐りをさせないように(季節を制限)すれば、材木はとても使いきれないほどよく繁茂するものです。かように穀物も魚やすっぽんも材木も使いきれないほど豊かになれば、人民の生活は安定して父母や妻子を養うにも、死者を弔うにも、なに一つ遺憾なくできるものです。これこそ王道政治の手始めなのです。(いま、私は王道政治と申しましたが、それにはまず第一に井田の法によって、一世帯ごとに百畝の田地と)五畝の宅地(とを、それぞれに分け与えてやって、その)まわりに桑を植えて養蚕をさせると、五十すぎの老人はふだんでも温かい絹物がきられます。また鶏、仔豚、食要件、牝豚などの家畜を飼わせて、子を孕んだり育てているときには殺さないようにさせると、七十すぎの老人は肉食ができます。(農家は一世帯ごとに百畝ずつの田地が分け与えられていますので、)農繁期に力役などを割り当てなければ、五六人の家族なら、まずひもじい目にはあいますまい。つぎには、学校での教育を重視して、とくに親への孝・目上への悌の道徳を徹底させれば、(若い者は老人を大切にして)白髪まじりの老人が路上で重い荷物などを頭に載せたり、背負わずともすむようになります。七十の老人たちが絹物をき、肉をたべ一般庶民が飢えも凍えもしない、(これこそ王道政治の仕上げとでも申すべきもので)、このような政治を行って遂に天下の王者とならなかったひとは、昔から今までにまだ一度もございません。

 ところが、今(王様)の政治は、ご自分の犬や豚には人間の食べものを鱈ふく食わせながら、これを米倉に収め貯えようともなさらない。路ばたに餓死者がころがっていても、米倉を開いて救おうともなさらない。人民が餓死しても、只いたずらに手を束(つか)ねて『わしの(政治の悪い)せいではない。凶作のせいでねえ』とすましていらっしゃるが、これは人を刺し殺しておきながら、『わしが殺したのじゃない。この刃物のせいだよ』と白白しくいうのと、なんの違いがありましょう。もし、王様が歳に罪をきせたりせず、ご自分の政治が悪いからだとハッキリ責任をご自覚なさいましたら、(隣国どころか)天下の人民は必ず王様の徳を慕って、お国にむらがり集ってくることでしょう。」

小林勝人訳注『孟子』上 岩波文庫

 書き下し文のところで「痒序」とありますが、これは「庠序」の誤植でしょうね。原文ママとしておきます。

 有名な五十歩百歩。現代でも、「おれはこんなにがんばっているのに、結果がついて来ないのはおかしい。」とか言う人はいますよね。その程度の苦労だの努力は、普通です。

2010-08-24

[][][]孟子を読む 梁惠王章句上(その2) 19:35 はてなブックマーク - 孟子を読む 梁惠王章句上(その2) - 蜀犬 日に吠ゆ

古の人は民と偕に楽しむ

梁惠王章句上 凡七章

孟子見梁惠王、王立於沼上、顧鴻鴈麋鹿曰、賢者亦樂此乎、孟子對曰、賢者而後樂此、不賢者雖有此不樂也、詩云、經始靈臺、經之營之、庶民攻之、不日成之、經始勿亟、庶民子來、王在靈囿、麀鹿攸伏、麀鹿濯濯、白鳥鶴鶴、王在靈沼、於牣魚躍、文王以民力爲臺爲沼、而民歡樂之、謂其臺曰靈臺、謂其沼曰靈沼、樂其有麋鹿魚鼈、古之人與民偕樂、故能樂也、湯誓曰、時日害喪、予及女皆亡、民欲與之皆亡、雖有臺池鳥獸、豈能獨樂哉、

小林勝人訳注『孟子』上 岩波文庫
梁惠王章句上 凡七章

 孟子梁の恵王に見ゆ。王沼(いけ)の上(ほとり)に立ち、鴻鴈麋鹿を顧みて曰く、賢者も亦此れを楽しむか。孟子対えて曰く、賢者にして後(能く)此れを楽しむ。不賢者は此れ有りと雖も楽しまざるなり。詩に云う、(文王)霊台を経始(けいし)す。之を経(はか、度)り之を営(なわば、縄張)り、庶民之を攻(おさ、治)め、日ならず(幾日も経ず)して之を成せり。経始亟(うなが、促)す勿きも、庶民子のごとく来れり。王霊囿に在り、麀鹿(ゆうろく)の伏す攸(ところ)。麀鹿濯濯たり。白鳥鶴鶴たり。王霊沼に在り、於(ここに)牣(み、満)ちて魚躍ると。文王民の力を以いて、台を為(おさ)め沼を為(つく)りて、民之を歓楽(よろこ)び、其の台を謂(なづけ)て霊台と曰い、其の沼を謂て霊沼と曰いて、その麋鹿魚鼈有るを楽しめり。古の人は民と偕に楽しむ。故に能く楽しめるなり。湯誓に(民・桀王を日に比して)曰く、時(こ)の日害(いつ)か喪(ほろ)ぶる、予女と皆に亡びんと。民之と皆に亡びんと欲せば、台池鳥獣ありと雖も、豈能く独り楽しまんや。


 孟子が梁の恵王にお目にかかった。王様はちょうど広いお庭の池のほとりに立たれ、大雁や小雁や大鹿や小鹿などを眺めながらいわれた。「賢者も(わしたちのように)こうしたものを見て楽しむのだろうか。」孟子はお答えしていわれた。「賢者であってこそ、はじめてこれらのものが楽しめるのです。賢者でなくては、たとえあっても、とても楽しむことはできません。だから、詩経にも、『文王が御殿をつくろうとして、見積ったり縄張りなどすると、おおぜいの人民がきそって工事をして、幾日もかからずに造りあげてしまった。武運王は(この工事は)決して急ぐには及ばぬといわれたのだが、人民たちは文王を親のように慕い、たくさん集まってきたから(忽ち出来あがったの)である。(御殿ばかりではなく、お庭も立派にできて、)文王がお庭にでてゆかれると、牝牡の鹿は楽しくあそび伏したまま、人がきてもいっこう驚かず、よく肥えふとって毛並みはつやつやしく、白鳥はその羽色(けいろ)まっ白である。文王がお池のほとりにのぞまれると、満々とたたえた水には、魚もみちみちてはねおどっている』といっておるうではございませんか。文王は人民の力で台や池をつくったのだが、人民は怨むどころか(その徳をほめたたえ)歓んで、「霊台(めでたいうてな)」「霊沼(めでたいいけ)」という名前までつけて、大鹿や小鹿・魚やすっぽんがいるうのをわがことのように楽しんだものです。それというのも、古の賢人は自分ひとりで楽しまないで、人民といっしょに楽しんだからこそ、本当に楽しめたのです。(書経の)湯誓篇に、(人民は夏の桀王を太陽になぞらえて『(ああ、苦しい。)この太陽はいったい、いつ亡びるのだろう。その時がくるなら、自分もいっしょに亡んだとてかまわない』といって呪ったとありますが、こんなに人民から『いっしょになら、この身を棄ててもかまわぬ』とまで怨まれるようになっては、いくら立派な台や池や鳥・獣があったとて、いつまでも自分ひとりで楽しんでなどおられましょうや。」

小林勝人訳注『孟子』上 岩波文庫

 「君臣偕楽」の出典ですね。

2010-08-23

[][][]孟子を読む 梁惠王章句上(その1) 20:47 はてなブックマーク - 孟子を読む 梁惠王章句上(その1) - 蜀犬 日に吠ゆ

王亦仁義を曰わんのみ

梁惠王章句上 凡七章

孟子見梁惠王、王曰、叟不遠千里而來、亦將有以利吾國乎、孟子對曰、王何必曰利、亦有仁義而已矣、王曰何以利吾國、大夫曰何以利吾家、士庶人曰何以利吾身、上下交征利而國危矣、萬乗之國弑其君者、必千乗之家、千乗之國弑其君者、必百乗之家、萬取千焉、千取百焉、不爲不多矣、苟爲後義而先利、不奪不饜、未有仁而遺其親者也、未有義而後其君者也、王亦曰仁義而已矣、何必曰利、

小林勝人訳注『孟子』上 岩波文庫
梁惠王章句上 凡七章

 孟子梁の恵王に見ゆ。王曰く、叟(そう)、千里を遠しとせずして来る。亦将に以て吾が国を利するあらんとするか。孟子対えて曰く、王何ぞ必ずしも利を曰わん。亦(ただ、惟)仁義あるのみ。王は何を以て吾が国を利せんと曰い、大夫は何を以て吾が家を利せんと曰い、士・庶人は何を以て吾が身を利せんと曰いて、上下(しょうか)交(こもごも)利を征(と、取)らば、而(則)ち国危からん。万乗の国、其の君を弑する者は、必ず千乗の家なり。千乗の国、其の君を弑する者は、必ず百乗の家なり。万に千を取り、千に百を取るは、多からずと為さず。(然れども)苟も義を後にして利を先にすることを為さば、奪わざれば饜(あ)かず。未だ仁にして其の親の親を遺つる者はあらざるなり。未だ義にして其の君を後(あなど、忽)る者はあらざるなり。王亦(ただ)仁義を曰わんのみ。何ぞ必ずしも利を曰わん。


 孟子がはじめて梁の恵王にお目にかかった。王がいわれた。「先生には千里もある道をいとわず、はるばるとお越しくださったからには、やはり(ほかの遊説の先生がたのように)わが国に利益をば与えてくださろうとのお考えでしょうな。」孟子はお答えしていわれた。「王様は、どうしてそう利益、利益とばかり口になさるのです。(国を治めるのに)題辞なのは、ただ仁義だけです。もしも、王様はどうしたら自分の国に利益になるのか、大夫は大夫でどうしたら自分の家に利益になるのか、役人や庶民もまたどうしたら自分の身に利益になるのかとばかりいって、上のものも下のものも、だれが利益を貪りとることだけしか考えなければ、国家は必ず滅亡してしまいましょう。いったい、万乗(まんのくるま)の大国でその君を弑(あや)めるものがあれば、それは必ず千乗の領地をもらっている大夫であり、千乗の国でその君を弑めるものがあれば、それは必ず百乗の領地をもらっている大夫であります。万乗の国で千乗の領地をもらい、千乗の国で百乗の領地をもらうのは、決して少なくはない厚禄です。それなのに(彼らが)十分の一ぐらいでは満足せず、その君を弑めてまでも(全部を)奪いとろうとするのは、仁義を無視して利益を第一に考えているからなのです。昔から仁に志すもので親をすてさったものは一人もないし、義をわきまえたもので主君をないがしろにしたものは一人もございません。だから王様、これからは、ただ仁義だけをおっしゃってください。どうして利益、利益とばかりくちになさるのです。」

小林勝人訳注『孟子』上 岩波文庫

 これが性善説だ! というわけで、これから順に孟子を読んでゆきます。

 ただ、孟子は論語ほどめぐまれた境遇にないので基本的にこの岩波文庫のみ読みます。中公クラシックスのは抄録なんですよね。なんでなのでしょう。

 あと、吉田松陰の『講孟余話』中公クラシックス もありました。まあその辺も適宜参照します。


 『講孟余話』冒頭を少し引き写しておきます。

題辞

 経書を読むにあたって、第一に重要なことは、聖賢におもねらないことである。もし少しでもおもねるところがあると、道は明らかにならぬし、学問をしても益なく、かえって有害である。たとえば、聖賢といわれる孔子や孟子のような方も、自分の生まれた国を離れて他国に行き仕官しようとされたが、これはなんとも納得のいかぬことである。

 およそ君臣の関係と父子の関係とは、その意義・本質を同じくするものである。自分の主君は暗愚であるからといって自国を去り、他国に行って新しい主君に仕えようとするのは、ちょうど父親を頑固な愚か者だとして自分の家を飛び出し、隣家の年寄りを父親とするようなものである。孔子や孟子が、この君臣間の本義を誤られたことは、いかようにも弁解の余地ないところである。

吉田松陰/松本三之介訳『講孟余話』中公クラシックス

 吉田先生の器が小さいことがばれるのでここでいきなりげんなりする文章なのですけれどもね。「君臣間の本義」の創始者に対して、時代や距離を隔てて歪曲されたローカルルールを押しつけてどうするのでしょうね。

今時の衆、斯様の義は唱へ失ひ、餘所の佛を尊び候事、我等は一圓落ち着き申さず候。釋迦も孔子も楠木も信玄も、終に龍造寺・鍋島に被官懸けられ候儀これなく候へば、當家の家風にかなひ申さざる事に候。

和辻哲郎・古川哲史校訂『葉隠』上 岩波文庫

 的な発想と一緒で、哲学的・思想的にグレードが低い。

 しかしまあなぜか知りませんが日本での孟子軽視と吉田松陰重視がはげしいので、一応目を通す、みたいな。


 しかし、松陰先生はいいことを言うんですよね。

梁恵王章句上

 このとき恵王は、孟子に対して、まず国を利するにはどうしたらよいかを質問したが、それはそれなりに一つの志を持った君主というべきだろう。にもかかわらず孟子がこれを制したのはなぜか。

 思うに、仁義は道理上なすべきものであり、利益は、なした仕事の功利・効用として期待さるべきものである。道理を主とすれば功利・効用は期待しなくても自然とやってくるものである。逆に功利・効用を主とすると、道理を失う結果になることが少なくない。そのうえ功利・効用を主とする者は、やることがみななおざりになって最後までやりとげることが少ない。(略)いやしくも、ただ道理上当然なすべきことをひたすら行おうとつとめ、終始一貫怠らないならば、それ以上は、なんでことの成否を気にかける必要があろう。孟子が恵王の利を主とする心を制したのも、そのためである。

吉田松陰/松本三之介訳『講孟余話』中公クラシックス
梁恵王章句上

 これは、諸葛孔明が二度目の「出師表」で述べている「苦難をものともせずに全力を傾け、命のあらんかぎりくじけることはない。ことの成否や成績などということは、私にもはっきり予見できるものではない」という言葉の意味と同じである。

吉田松陰/松本三之介訳『講孟余話』中公クラシックス

 それが、性善説か。

孟子〈上〉 (岩波文庫)

孟子〈上〉 (岩波文庫)

孟子 (中公クラシックス)

孟子 (中公クラシックス)