蜀犬 日に吠ゆ

1919-12-31

[][]十二月三十一日 もしあなたがこの地上の生活を はてなブックマーク - 十二月三十一日 もしあなたがこの地上の生活を - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

 まあ、いってみれば、同じ学年を二度やりなおさなければならないときのように、もしあなたがこの地上の生活をもう一度くり返さねばならないとしたら、どんな条件でそれをしたいと望むだろうか。

 たぶん今と同じか、または似たような外的境遇のもとで生きたいと思うだろうか。もしそうなら、それだけでも、これまでの生活にたいして神にふかく感謝すべき十分な理由があるだろう。おそらくなおその上に、同じ妻や子供たちと一緒にと思うが、ほかの人たちとともに暮したくはないのだろうか。たとえば、わたしならば、そう言うかもしれない。そうすると、外的条件について、神に感謝すべき理由が倍になるわけである。

 さてしかし、次は重要な内的条件の問題に移る。それについてあなたは、どんなものを希望するのだろうか。善を行うための精神と力とをもっと多く願うのだろうか。結構だ。でもそれは、きっと上からの霊と力、つまり、真理の霊と神の力のことであってあなた自身の力をいうのではあるまい。しかし、それならこの世の生活でもすでに持っことができたはずだ。それとも、神の恩寵に対するより多くの信頼と、あらゆる事にもっと多くの神の助力とを、願うのだろうか。これについても、前とほぼ同じことが言えるだろう。

 では最後に、もっと多くの愛を、願うのだろう。まさに望むのは、これのみであり、そして、これこそ地上の生活と未来の生活との大きな相違となるだろう(肉体のことを別とすれば)。実際、もっと多くの愛があれば、あなたはこの地上の時代でも、ほとんどすべての苦悩や艱難を味わわずにすんだであろう。


    最後の登高

  最後の嵐が吹きすさんでも

  絶頂めざしていさんで登ろう。

  これから道は永久に真直ぐだ。

  天の梯子もはるか上まで見える。


  ついに明けそめた朝のそよ風が、

  えもいえぬ思いで胸をみたす。

  しかしその時どきの恩寵(めぐみ)の豊かさに、

  わたしの心もたましいも夢みごこち。


  高き栄光よ、ついに近づいた、

  年ごろ想ったのとなんという違いか。

  けれどもなお長い巡礼の不安な旅路を思い、

  いま一度、十分に支度をととのえよう。


  現実の危険はついに知らなかった。

  わたしに触れたのはただ恐怖の影のみ。

  ここまで親しく導き給うた主よ、

  あなたの大みわざをなしとげて下さるでしょうか。




 愛はすべてにうち勝つ。(Amor omnia vincit)

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第二部 岩波文庫

1919-12-30

[][]十二月三十日 わずらわしい多くの人たちとも はてなブックマーク - 十二月三十日 わずらわしい多くの人たちとも - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

十二月三十日

 われわれにとっていくらかわずらわしい多くの人たちとも、われわれはいずれ近いうち会わなくなり、そののちおそらく、もう二度と会うことはあるまい。だから、せめてこの短い期間だけでも、彼らと親切に接しよう。

 しかし、かりに、そのあとも永久に、彼らと一緒に生きつづけなくてはならぬとしても、こうする方がずっと賢明である。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第二部 岩波文庫

1919-12-29

[][]十二月二十九日 最も美しい死とは はてなブックマーク - 十二月二十九日 最も美しい死とは - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

 あなたがこころに追い求めている最も美しい死とは、たしかに老年には往々現われるようなたましいと肉体との安らぎのなかから、肉体的生命だけがおだやかに尽きること、であろう。

 そういうとき、心臓のかすかな鼓動が、ほとんど誰にも気づかれないでとまれば、それでよいのだろう。ただ、この地上の生命を人間の持つ唯一のものだと考える、わからずやの医師が、人為的に刺戟を与えて心臓の鼓動をひきのばそうなとどしてはなるまい。

 これとは別な、やはり同じように美しいが困難な死は、あきらかに、英雄や殉教者の死である。キリストもまた、すこしも弱ることなく、精神力にみちて、そのっような死をとげたのである。

 だが、死については、もうこれ以上考えないがよろしい。考えても、なんら有益な結果は生じない。むしろ、生に執着することなく、しかも、人生の任務のために、神のみこころにかなうかぎり、生きつづけなさい。これこそ、すこしも老人臭さを帯びることもない、最もよい年のとり方である。

 そのあとは、新しい青春をまちのぞむことにしよう。

 ヨハネによる福音書一四の一―六。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第二部 岩波文庫

1919-12-28

[][]十二月二十八日 この地上で神から離れて生きているたましいが はてなブックマーク - 十二月二十八日 この地上で神から離れて生きているたましいが - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

 すでにこの地上で神から離れて生きているたましいが、その肉体が朽ちはてたとき、どうなるかということを、まったく誤りなく想像するのは困難である。もしもたましいが肉体の単なる一機能にすぎないとすれば、むろんたましいもまた同じように解消してしまうのは明らかであろう。これはおそらく、そのたましいにとって、まだしも最も寛大な運命だといえよう。

 しかし、もしそうでなければ(死後たましいが残るとすれば)、たましいは必ずや光の世界から隔離されて、福音書のどこにも述べてはないが、恐ろしい空虚の状態におちいるにちがいない。この慰めも希望もない隔絶に比べればラザロと金持との寓話(ルカによる福音書第一六章)がのべっている状態は、まだしも、それより高い段階である。なぜなら、なおそこには、悲惨の意識と、より良きものを、他人のためにさえ、願い求める意識が暗示されているように見えるからである(ルカによる福音書一六の二七・二八参照*1)。しかし、これは明らかに、このような神に見捨てられた人を、ただ比喩的に述べたものにすぎない。福音書にあるその歴史的な実例は(しかしこれについては、ただすべての注釈者が口をつぐむのが常であるが)、ユダの運命である。彼について、キリストは生前にも死後にも、もはやすこしも語っていない。このように神からも、人間からもすっかり見捨てられてしまった人間が、ありうるものか。そして、彼らの運命はどんなものであろうか。

 精神が肉体を離れたときに、虚無の暗やみのなかにただひとりたたずむことのないために、あなたは、あなたの家族が、どんな状況のもとでも、神との心からの交わりをもちつづけていられるようにつとめるがよい。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第二部 岩波文庫

*1:「そこで金持が言った、『父よ(アブアラハム)、ではお願いします、わたしの父の家へラザロをつかわしてください。わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。」

1919-12-27

[][]十二月二十七日 身体が完全に健康だというすばらしい感じは、老年においては はてなブックマーク - 十二月二十七日 身体が完全に健康だというすばらしい感じは、老年においては - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

 身体が完全に健康だというすばらしい感じは、老年においては、たいていほんの一時的なものであって、からだがすっかり安らいで、暖かなとき(たとえば朝のベッドの中か、秋にトゥーン湖畔の陽あたりのよい場所にでもくるとき)などに与えられるが、しかし、そんな時には、時おり、来世の予感かと思われるような、美妙な気持を覚える。もしわれわれが老年において、このような感じを持ちつづけることができれば、円熟と静かな晴れやかさのこの時期――フランス語の「セレニテ」(清朗)という言葉の方がこの感じをもっとぴったりいい表わしている――は、実に人生の最上の時であって、いわゆる青春の歓楽も壮年の力も、とうていこれと比べものにならない。したがって、この感情は、決して落日の美ではなくて、むしろよりよき存在への夜明けの光に比すべきものである。だが、やがてすっかり真昼になるころには、われわれはこの地上の生活に耐えられなくなるだろう。

 これが老年の最上の幸福である。老年の幸福というものは、必ずしもただ家庭のよろこびや、さもなければ思い出のなかにのみあるのではなくて、もっとはるかに善いものでありうるのである。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第二部 岩波文庫

1919-12-26

[][]十二月二十六日 まことの鄭重さは はてなブックマーク - 十二月二十六日 まことの鄭重さは - 蜀犬 日に吠ゆ

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)

 すべての人にたいするまことの鄭重さは、一人の人間に宿ったこの神の慈愛が、人間仲間に対してあらわれたもの以外では決してない。それと性質の違うすべての鄭重さ、たとえば、外交官だの、そのほか上品な世間人が良い教育によってよく身につけている鄭重さなどは、礼儀をわきまえぬ場合と反対に、たしかにこころよいものにはちがいないが、しかし、どうしても常にいくらかわざとらしい印象を与えるし、お愛想だの、偽善だのに類する見せかけだという、なんともいやな感じを残すものだ。このような鄭重さは、よい代用物ではあっても、それ以上のものではない。

 動物でさえ、本当の慈愛には気づくものである。聖者の説教に耳をかたむけた小鳥や魚についての伝説とか、アッシジの聖フランチェスコの生涯における「兄弟狼」のふしぎな物語はみな、このような真実な背景をもっている。

 植物の栽培においても、ある人びとは、特別によく世間でいわれる「幸いの手」を持っている。しかし、これも結局、そのような慈愛以外のものではない。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第二部 岩波文庫