蜀犬 日に吠ゆ

2017-05-14

[][][]何晏と夏のがまん大会~~『世説新語』中国古典文学大系 平凡社 17:07 はてなブックマーク - 何晏と夏のがまん大会~~『世説新語』中国古典文学大系 平凡社 - 蜀犬 日に吠ゆ

 魏の明帝(曹叡)によるパワハラ

http://katawareboshi01.g.hatena.ne.jp/mori-tahyoue/20170226/1488111328

 の続き。『世説新語』が無事に見つかったので書き出しておきます。

下巻 容止篇第十四

 二 何平叔*1は姿が美しく、顔の色も抜けるほど白かった。魏の明帝*2は、かれが白粉をつけているのではないかと疑い、夏の盛りに熱い湯漬けの麥并(もち)*3を食べさせてみた。たべ終わったあと、大汗が出てきたので、朱衣で顔をふいたが、彼の顔はいよいよ白くさえわたった。*4

『世説新語・顔氏家訓』中国古典文学大系 平凡社

 影山先生が「タンメン」と訳したところは、文学大系では「湯漬けのもち」となっています。「麥并」でも「餅」でも、小麦粉をこねた食品ですし、「湯」は味付きスープのこと(タンメンのタン)です。しかし、タンメンというとこちらはタンメンを想像してしまいます。もっと「すいとん」よりだったのではないかなあ、と個人的には思いました。

 何晏が宮中に暮らしていた話も、『世説新語』にあります。何晏の父は何進(大将軍)。母は尹氏(いんし)でしたが、何進の死後は魏武帝(曹操)の妾になっておりました。連れ子の何晏もまた七歳までは宮中で暮らした訳です。なので何平叔(平民のおじさん)。ちょっと気になるのは、何晏(195生)、曹叡(205生)なので、『世説新語』夙恵篇の「七歳で家に帰った」が本当ならば、宮中でともに育ったと言う部分にはずれがあるはず。何晏はその後も宮廷をウロチョロしていたというのも十分あり得る話ですけど。

*1:原注:何晏。言語篇一四節に見える。

*2:曹叡(言語篇一三節)。魏第二代の天子

*3:むぎへんに并で一文字

*4:劉孝標の注『魏略』に何晏のことを述べて「粉帛(『魏志』何晏伝注では粉白)手より去らず、行歩して影を顧みる」とあるのを引き、何晏は化粧していたという。かつ何晏は明帝とともに宮中に育ったのであるから、このような実験の必要はないと述べている。

2017-02-26

[][][]パワハラin 三国志~~影山輝國『『論語』』中公選書 21:15 はてなブックマーク - パワハラin 三国志~~影山輝國『『論語』』中公選書 - 蜀犬 日に吠ゆ

 魏の明帝、曹叡が何晏にパワハラした話。

 畏友影山*1の本を読んでいたら、面白い逸話があったのでメモ。

 『世説新語』はただいま所在不明なので、もとの話を確認できません。悲しい。「タンメン」ってどこからでてきたのか。

 ここで何晏について、一言しておこう。五感末期の皇帝である霊帝の皇后は何皇后という。皇后の兄の大将軍何進は、外戚として権勢を振るった。彼は『三国志』にも登場する有名な人物であり、宦官を誅滅しようとして、かえって殺されてしまった。

 何晏はその孫にあたる人物である。何晏の父、何咸は早く死に、母の尹氏(いんし)は魏の曹操の妾となったため、何晏も一緒に曹操に引き取られて、宮中で養育された。やがて曹操と母尹氏とのあいだに金郷公主が生まれると、何晏はこの同母の妹を自分の妻に迎えたともいわれる。

 彼はダンディなナルシストで、つねに白粉(おしろい)を手放さず、歩くときは自分の影を振り返って眺めたという(『三国志』「魏書」注)。白粉をつけなくとも彼の肌はぬけるように白かったらしく、魏の明帝は何晏の顔色が白いのは白粉のせいではないかと疑い、夏の暑い日に、熱いタンメンを食べさせた。何晏は大汗をかいて、それを赤い衣で拭(ぬぐ)うと、顔色はますます白く冴えわたったと伝えられる(『世説新語』容止篇)。また、女装癖もあったといわれている(『宋書』五行志一)。

影山輝國『『論語』』中公選書

 これで思い出したのは、織田信長が弥助(モザンビーク出身の黒人武将)を見たときに身体を洗わせた話です。何晏はいちおう貴顕の立場なので、いきなりごしごしこするわけにはいかなかったのでしょうけれども、暑い盛りにタンメンを食べさせるというのは、おかしな話ですよね。どんな顔して席に着き、運ばれてきたタンメンに何を思ったのでしょうか。

*1:高島俊男先生がいつも畏友影山輝國と呼ぶのでこう記します。

2015-12-30

[][]「曹操にたいする評価について」 22:22 はてなブックマーク - 「曹操にたいする評価について」 - 蜀犬 日に吠ゆ

 曹操の善玉悪玉に関して

補説 1 曹操にたいする評価について

 中国の古典劇における曹操は顔を白くぬってあらわれる。白ぬりは姦悪の役柄である。曹操のイメージは悪く、三歳の子どもでさえも彼をひどく憎んだと現代中国の歴史学の大家郭沫若氏はいう。しかし曹操にたいする評価はそれでもって一貫してきたわけではない。

 曹操評価の基準というべきものの一つに正統論がある。つまり、魏と蜀漢のいずれを正統王朝として認定するかという問題が曹操評価に関わってくるのであるが、正統論は時代状況によって大きな影響をうける。晋は魏の禅譲を受けたから、西晋時代の論者は魏を正統とみなす。陳寿の『三国志』が魏を本紀であつかい、呉・蜀の君主を列伝のなかであつかっているのはその代表例であるが、彼は曹操に「非常の人、超世の傑」という肯定的な評価を与えている。

だが、伝統的な政権の所在地である河北を非漢民族にうばわれてみずからの正統性に疑義が生じ、かつての呉・蜀と類似した立場に置かれた東晋では、一転して蜀漢の正統性が主張される。東晋の人習鑿歯(しゅうさくし)は『漢晋春秋』をあらわして曹操を簒逆者(さんぎゃくしゃ)とみなし、他方、蜀漢の諸葛亮については「死せる孔明生ける仲達を走らす」エピソードなどをあげてその軍事的天才ぶりを称揚し、孔明の軍略家としての資質に疑問を投げかけた陳寿とはことなる像を描いているのである。

同様のことは宋代にもみられる。北宋では魏正統説が中心であった。司馬光は、天下統一がなされなかったゆえに魏を完全に正統とは認めないものの、『資治通鑑』では実質上魏を正統としてあつかっていて、曹操のとらえかたも肯定的であるし、蘇軾の、「赤壁の賦(ふ)」は曹操を英雄としてとらえている。いっぽう、南宋では河北をうばった金を魏に、、みずからを蜀漢に比定する考え方がおこなわれる。そして朱熹(朱子)が『資治通鑑綱目』において蜀漢を正統としたことは、正統論の帰結を定めたのである。

窪添慶文「三国の政治」『中国史2 三国~唐』山川出版社

2015-08-25

[][][][]じゃよ~~酒見賢一『泣き虫弱虫諸葛孔明』新潮文庫 22:54 はてなブックマーク - じゃよ~~酒見賢一『泣き虫弱虫諸葛孔明』新潮文庫 - 蜀犬 日に吠ゆ

 待望の文庫化

いいかげんにしろ

2015-02-22

[][][]杜康潤『孔明の嫁』芳文社 17:16 はてなブックマーク - 杜康潤『孔明の嫁』芳文社 - 蜀犬 日に吠ゆ

 酒見先生の作品が文庫化するのが遅いので、欲求不満です。(「が」の連続)

 で、漫画を読む。

孔明のヨメ。 (1) (まんがタイムコミックス)

孔明のヨメ。 (1) (まんがタイムコミックス)

孔明のヨメ。 (2) (まんがタイムコミックス)

孔明のヨメ。 (2) (まんがタイムコミックス)

孔明のヨメ。 (3) (まんがタイムコミックス)

孔明のヨメ。 (3) (まんがタイムコミックス)

孔明のヨメ。 (4) (まんがタイムコミックス)

孔明のヨメ。 (4) (まんがタイムコミックス)

 日常四コマ形式。四コマごとではなくて話が続いていく。こういうの、どこから始まったのか。

 しかし、こんなギャグ漫画もきっちり史実を押さえる時代なんですね。まあ史実がギャグみたいなところもありますが。三国志は流石(ナガレイシ)です。

 諸説あるところから一番おもしろいところをつないで、こんな作品が出来るわけで楽しいことです。

2013-03-26

[][][]「この君」の話~~『世説新語・顔氏家訓』中国古典文学大系 平凡社 20:36 はてなブックマーク - 「この君」の話~~『世説新語・顔氏家訓』中国古典文学大系 平凡社 - 蜀犬 日に吠ゆ

 『世説新語』より

任誕篇 第二十三

四六

 王子猷(おうしゆう)(注一)はあるとき人の空家に一時仮り住まいをしたことがあるが、すぐ竹を植えさせた。ある人がたずねた。

「しばらく住むだけなのに、なぜそんなことをする必要があるのかね」

 王子猷はしばらく嘯(くちぶえ)ふいてのち、竹をまっすぐ指しながらいった。

「一日とてこの君がなくてよかろうか(注二)」


  • 一 王子猷 王徽之(きし)(本篇三九節)。子猷は字。王羲之の子。
  • 二 一日として…… 原文は「何ぞ一日も此の君の無かる可(べ)けんや」とある。これが出典となり、竹のことを「此君」という。
『世説新語・顔氏家訓』中国古典文学大系 平凡社

 これを出典として「この君」などといっている人は、申し訳ありません、清少納言しか知りません。そこで『枕草子』を引っ張り出そうと思ったのですが、書棚を探して出て来たのは「桃尻」。うぅむ。と、半月ぐらいほったらかしていました。つい先日、『列子』をさがしていたところ岩波文庫版の『枕草子』がでてきたので忘れないうちにメモ。


(一三七)

 五月ばかり、月もなういとくらきに、「女房やさぶらひ給ふ」と、聲々していへば、「出でて見よ。例ならずいふは誰(たれ)ぞとよ」と仰せらるれば、「こは、誰(た)ぞ。いとおどろおどろしう、きはやかなるは」というふ。ものはいはで、御簾をもたげてそよろとさし入(い)るる、呉竹なりけり。「おい、(三)この君にこそ」と(四)いひわたるを聞きて、「いざいざ、これまづ殿上にいきて語らむ」とて、(一)式部卿の宮の源中將、六位どもなど、ありけるは往(い)ぬ。

 頭の辨はとまり給へり。「あやしくても往ぬる者どもかな。(二)御前(ごぜん)の竹を折て、歌よまむとてしつるを、おなじくは職にまゐりて、女房など呼び出できこえてと、もて來つるに、呉竹の名をいととくいはれて、往ぬるこそいとほしけれ。誰(た)が教へを聞きて、人のなべて知るべうもあらぬことをばいふぞ」などのたまへば、「竹の名とも知らぬものを。なめしとやおぼしつらん」といへば、「まことに、そは知らじを」などのたまふ。

(後略)

  • (一三七)長保元年
  • 三 この君―晉書、王徽之傳「嘗寄居空宅之中、便令種竹。或問其故。徽之但嘯詠指竹曰、何可一日無此君邪」。
  • 四 いひわたる―不審。能因本「いひたる」。
  • 一 式部卿の宮の源中將―爲平親王(村上天皇皇子)の二男、源頼定。長徳四年十月中將、寛弘二年六月蔵人頭。前出(四五)。
  • 二 御前の竹―清涼殿東庭の呉竹。
池田亀鑑校訂『枕草子』岩波文庫

 出典は『晋書』ということになっています。内容は同じですけれど。

中国古典文学大系 (9)

中国古典文学大系 (9)

枕草子 (岩波文庫)

枕草子 (岩波文庫)


 橋本訳も書いておきます。

第百三十段

 五月ぐらい――月もなくてすっごく暗いとこに、「女房はいらっしゃるかいな」って、声を合わせて言うから、「出て見といでよ。非常識な呼び方は誰なの?」っておっしゃるからさ、「ちょっと、誰よォ! すっごい大袈裟沢山にとんがってんのはァ!」って言うのね。

 ものも言わないで御簾を持ち上げて、ソヨロッって入って来るのは呉竹なんだったのね。

「あら、この君だったのか」って言ったのを聞いて、「よォよォ! こいつをまず殿上の間に行って話そうぜェ」ってさ、式部卿の源中将、六位達なんか、いたのは行っちゃったの。

 頭弁はお残りになったのね。

「なに考えてんだか、行っちまいやんの。”御前の竹を折って和歌読もうぜ”ってやってたのを、”どうせなら職の御曹司に行って、女房なんか呼び出してもらってさ”って持って来たのに、呉竹の名前をスゲェさっさと言われて行っちゃていうのがなァ、ホント、情けないよなァ。誰が教えんのを聞いて、人が普通知っていそうもないセリフをさ、言うのよ?」なんておっしゃるから、「竹の名前だなんて知らないもーん。”なめてる”とかお思いになったんでしょ」って言うと、「そうそう。そんなこと知らないんだ♡」なんておっしゃるの。

(後略)

(註:「またか」っておっしゃられるかもしれませんけどォ。自慢みたいでいやなんですけどォ、中国の王徽之って人が空家に住んでてね、一人じゃつまんないから、庭に竹を植えたんですって。それ以来、竹は人間の”お友達”なのよ。白楽天はさ、「竹は中がガラン洞で真っ直ぐだ」って――つまり心の中がきれいで姿勢がいいって、”師(せんせい)”扱いまでしたのね。藤原篤茂(あつもち)って人が、その白楽天のことを漢詩にして、「種エテ此君ト称ス」って言ってる。そのことなんだ。清涼殿の東の庭には呉竹の台って、竹を植えてあるとこがあるからね。それでみんなワイワイやってたんでしょ。)

橋本治『桃尻語訳 枕草子』中 河出文庫
桃尻語訳 枕草子〈中〉 (河出文庫)

桃尻語訳 枕草子〈中〉 (河出文庫)