蜀犬 日に吠ゆ

2009-12-28

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子路、曾晢、冉有、公西華、侍坐す

 先進第十一(254~278)

278 子路。曾晢。冉有。公西華。侍坐。子曰。以吾一日長乎爾。毋吾以也。居則曰。不吾知也。如或知爾。則何以哉。子路率爾而対。曰。千乗之国。摂乎大国之間。加之以師旅。因之以饑饉。由也為之。比及三年。可使有勇。且知方也。夫子哂之。求。爾何如。対曰。方六七十。如五六十。求也為之。比及三年。可使足民。如其礼楽。以俟君子。赤爾何如。対曰。非曰能之。願学焉。宗廟之事。如会同。端章甫。願為小相焉。点爾何如。鼓瑟希。鏗爾。舎瑟而作。対曰。異乎三子者之撰。子曰。何傷乎。亦各言其志也。曰。莫春者。春服既成。冠者五六人。童子六七人。浴乎沂。風乎舞雩。詠而帰。夫子謂然歎曰。吾与点也。三子者出。曾晢後。曾晢曰。夫三子者之言何如。子曰。亦各言其志也已矣。曰。夫子何哂由。曰。為国以礼。其言不譲。是故哂之。唯求則非邦也与。安見方六七十。如五六十。而非邦也者。唯赤則非邦也与。宗廟会同。非諸侯而何。赤也為之小。孰能為之大。

(訓)子路、曾晢(そうせき)、冉有、公西華、侍坐す。子曰く、吾れ一日爾に長ずるを以て、吾れを以てする毋れ。居りては則ち曰く、吾れを知らざるなり、と。如し爾を知るものあらば、則ち何を以てせんや。子路、率爾(そつじ)として対えて曰く、千乗の国、大国の間に摂(はさ)まれ、これに加うるに師旅を以てし、これに因るに饑饉を以てす。由やこれを為(おさ)め、三年に及ぶ比(ころ)おい、勇ありて且つ方を知らしむべきなり。夫子、これを哂(わら)う。求、爾は何如(いかん)。対えて曰く。方、六、七十、如しくは五、六十、求やこれを為め、三年に及ぶ比おい、民を足らしむべし。其の礼楽の如きは、以て君子を俟(ま)たん。赤、爾は何如。対えて曰く、これを能くすると曰うには非ず。願わくはこれを学ばん。宗廟の事、如しくは会同に、端章甫(たんしょうほ)して、願わくは小相と為らん。点、爾は何如。瑟を鼓すること希なり。鏗爾として瑟を舎(お)いて作(た)つ。対えて曰く、乎三子者の撰に異なり。子曰く、何ぞ傷まんや。亦た各々其の志を言うなり。曰く、暮春には、春服既に成る。冠する者五、六人、童子六、七人、沂(き)に浴し、舞雩(ぶう)に風し、詠じて帰らん。夫子、謂然(きぜん)として歎じて曰く、吾れは点に与せん。三子者出づ。曾晢後る。曾晢曰く、夫の三子者の言は何如。子曰く、亦た各々其の志を言うのみ。曰く、夫子、何ぞ由を哂うや。曰く。国を為むるには礼を以てす。其の言譲らず。是の故にこれを哂う。唯だ求は則ち邦に非ざるか。安(いずく)んぞ方六、七十、如しくは五、六十にして、邦に非ざる者を見んや。唯だ赤は則ち邦に非ざるか。宗廟、会同は諸侯に非ずして何ぞ。赤やこれが小たらば、孰れか能くこれが大と為らん。

(新)子路、曾晢、冉有、公西華の四人が、陪席していた。子曰く、今日は私が先生だからと言って少しも遠慮しないで話をしてもらいたい。諸君は雑談の折にいつも口癖のように、自分の才能を認めて用いてくれる人がない、と言っているが、もし本当に登用される機会があったら、何をしたいと思うかね。子路が待ってましたとばかりに口を開いた。戦車千乗を常備する一流国家で、強国の間に介在し、戦争で疲弊したあと、饑饉があって困窮したとします。私がその政治を任されたなら、三年もたった頃には、再び活気を取り戻し、その上に同義を尊重する国家を育てあげて見たいと思います。聞いていた孔子が意味あり気に笑った。求や、お前はどうだ。対えて曰く、六、七十里四方、いや、もっと小さい五、六十里四方の地域で、私が政治を任されましたなら、三年も立った頃には、人民の生活を豊かにしてみせたいと存じます。もっとも文化程度の向上という点になると自信がありませんから、もっと立派なかたがおいでになることを期待します。子曰く、赤や、お前はどうだ。対えて曰く、私は自信があっていうのではありませんが、希望だけ申しますと、宗廟における祖先の祭りや、賓客が集まる会同の際などに、端の礼服を着、章甫の冠をつけて、礼儀を助ける小相の役を果したいと思います。子曰く、点や、お前はどうだ。すると曾晢はこれまで、瑟を膝の上にのせ、ぽつりぽつりと、かそけく弾いていたのであるが、この時それをかたりと音をさせて傍におき、形を改めて居ずまいを正し、対えて曰く、私の考えは今までの方々とは余りに違いますので、困ります。子曰く、一向に差支えないではないか。みなそれぞれに自分の抱負を言ってみるだけだ。曰く、春四月ともなれば、春の装いに着かえ、若者五、六人、子供六、七人をひきつれて遊山に出、沂水の川で浴(ゆあみ)し、舞雩の広場で風に吹かれ、歌を口ずさみながら帰ってきましょう。それを聞いた孔子が深い歎息をもらして、曰く、私は点に賛成だ。三人が退出したあと、曾晢だけ居残った。曾晢曰く、三人の言ったことを、どうお聞きになりましたか。子曰く、みなそれぞれに自分の抱負を言ってみただけだ。曰く、でも先生は何故、由を笑われたのですか。曰く、国を治めるには礼をもってすべきで、自分でもそう言いながら、あまり謙虚でないことを言い出したから、おかしくなったのだ。次に求の自任する職場は、ひとかどの独立国だな。六、七十里四方、もしくは五、六十里四方の地域と言えば、立派な独立国の外にない。次に赤の立場も独立国らしいな。宗廟があり、会同を行うという以上、それは天子につぐ諸侯のことでなくて何であろう。それに赤は遠慮して小相になると言っているが、赤が小相なら、いったい誰がその上に立つ大相になれるだろうか。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 一見して明らかなように、「論語」の中で最も長い章である。また孔子のゆたかな、あたたかい性格を示すものとして、大変有名な章である。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

 一目では分かりません。修行が足りない。

 この章句は盍んぞ各々爾が志を言わざると似ていますが、今回は「もしかりに、諸君が世間から認められたとしたら」どうするか、という条件付きで志をいうところが異なり、また公冶長第五では顔回と子路、孔子の対比であるのに対して、子路、曾晢、冉有、公西華というメンバーが、それぞれお互いを意識しながら話しているという点に特徴があります。

 子路はまた出しゃばって先生から笑われ、おそらくそれをみた冉有はすこし控え目な言い方をしたのでしょう。あとで孔子から「謙虚さがない」と言われた子路ですが、公冶長第五孟武伯問では子路は千乗の国を治めるに足る、冉有は千戸の町で宰になれる、と言われていたので実力は十分に持っていて、しかし君子というものは自分からひけらかしたりしないものであると言うことなのでしょうね。


 曾晢はここにしか出てこない人物ですが、孔子晩年の心境によりそうように、老荘思想たっぷりの理想を語ります。気宇壮大な子路の言葉に対して、春の夕暮れの散歩など、どうでもいいことを言っているようでもありますが、経世済民だの礼法の学問だのといった俗世を超越した達観ではありましょう。孔子も、目に見える功名業績など吹き飛ばして、世を捨てるわけではなくて自由に生きる姿に賛成したのでしょう。


 ところで、

 四人の弟子が孔子に侍坐するには年齢順に並んでいたであろうから、子路に次いで曾晢が対えるはずであるのに瑟を鼓いていたから、孔子はまず冉有と公西華とに問うて後に曾晢に及んだのである。

宇野哲人『論語新釈』講談社学術文庫

 とありますが、さきほども引用した盍んぞ各々爾が志を言わざるでは「顔淵季路侍」云々となっていますから、必ずしもそうとは限らないと思います。子路が「率爾ながら」といい、後で曾晢が「先生はなぜ由を笑ったのですか」と子路を名前で呼んだので、曾晢が最年長説もあるのではないでしょうか。



 以上で、学問を志す者が尊ぶ『論語』下論、多く弟子の賢か不賢かを評する「先進」という第十一章は終わる。

2009-12-26

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仲由、冉求は大臣と謂うべきか

 先進第十一(254~278)

276 季子然問。仲由冉求。可謂大臣与。子曰。吾以子為異之問。曾由与求之問。所謂大臣者。以道事君。不可則止。今由与求也。可謂具臣矣。曰。然則従之者与。子曰。弑父与君。亦不従也。

(訓)季子然、問う。仲由、冉求は大臣(だいしん)と謂うべきか。子曰く、吾れは子を以て、異るをこれ問うと為す。曾(すな)わち由と求とをこれ問う。いわゆる大臣なる者は、道を以て君に事え、可(きか)ざれば則ち止む。今、由と求や、具臣と謂うべきなり。曰く、然らば則ちこれに従う者か。子曰く、父と君とを弑するには、亦た従わざるなり。

(新)季子然が尋ねた。(この頃召し抱えた)仲由と冉求とは、大臣と呼ばれる資格がありますか。子曰く、はて、異な質問を承るものです。由と求とについてのお問いは予期しませんでした。しかし、お尋ねの大臣という者は、正義をもって主人に仕える者のことで、その正義を通してもらえなければさっさと地位を去ります。いま由と求とはそこまで行きませんから、頭数を揃えるだけの具臣と言っておけば間違いないでしょう。曰く、それなら何でも主人の命令通りに動きますか。曰く、父と君主とを弑するような場合には、決して従いますまい。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 孔子の考え方としては、何度か出て来てはいます「悪いことをしないことを善いとは評価しない」というのが表明されているのでしょうね。君子にとって「悪いことをしない」というのは当然の前提であり、常に戦戦兢兢しているはずです。そうした道徳に従って、しかもそれを重荷とすることなく立派な業績をあげることが求められているのであって、そうでなければ、具臣(そろっているだけの臣)ということになってしまう、のでしょう。


 ここでは、子路や冉求は孔子門下の高弟ではありますが、三桓氏が専横をきわめている情勢で、しかもその三桓氏に仕える身であっては、道徳の理想を実現することなど非常にむずかしい。孔子としても、弟子たちの任官を邪魔したくはない、しかし不道徳な主のもとで能力を発揮されても困る、といった苦悩があって、つい「弑父与君」などという縁起でもない言葉遣いになったのではないでしょうか。


是の故に夫の佞者を悪む

 先進第十一(254~278)

277 子路使子羔為費宰。子曰。賊夫人之子。子路曰。有民人焉。有社稷焉。何必読書。然後為学。子曰。是故悪夫佞者。

(訓)子路、子羔(しこう)をして費の宰たらしむ。子曰く、夫(か)の人の子を賊(そこな)う、と。子路曰く、民人あり、社稷あり、何ぞ必ずしも書を読んで、然る後に学と為さん。子曰く、是の故に夫の佞者を悪(にく)む。

(新)子路が子羔を招いて費の邑の代官とした。子曰く、人の大事な子を台無しにしてしまう。子路曰く、人民を統治し、領土を守護する大事な仕事があります。学問とは、何も書経を暗誦することばかりを言うのではありますまい。子曰く、これだからこそ、口達者な人間は大嫌いだと言うのだ。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 子路、さんざんですね。


 一般論としては、昼寝する人とか、君子なのか、色荘なる者かを見極めなければならないとか、「郷原は徳の賊なり(陽貨第十七)」あたりですよね。口がうまいことと君子の道を歩むこととは別。子路もいろいろ理屈をつけましたが、その理屈が正しいとしても、行動の結果がダメであればダメなのだ、と。諺では、「理屈と膏薬はどこにでもはっつく」。

 下村湖人『論語物語』では、この「何必読書」あたりが孔子がかつて教えた言葉であると言うようになっています。なにしろ子路ですからね、臨機応変にこうぽんぽん言い訳を思いついた、とは考えにくい。

 私が妄想するなら、子路は子羔に就職を斡旋してやって、夫子から褒められるくらいのことを期待していたのに、逆にどうもお嘆きのようである、とききつけて、言い訳をうんうんうなって考えて、ようやくこの、かつていただいた教えが使えそうだ、と思い当たって、自信満々乗り込んできたのではないかと。

 そうしてまた叱られたの巻。


 個別論で言うなら、まず、前段にもあった、三桓氏の専横という問題があります。子路が使え、また子羔を採用した費城というのは、季桓子の荘園であり、のちに孔子が毀損することになる、下克上の象徴ともいえる町でした。かつて閔子騫は仕官を断っています。もし、季氏から招聘されるなりして子羔が夫子に相談すれば、おそらく断らせたであろう案件を、兄弟子である子路がもちかけてくれば子羔としては断るわけにもいかず夫子にも相談しにくい。そういうところに鈍感な子路を、孔子は責めて「賊夫人之子」と言ったのではないでしょうか。

 もう一つ。子羔の人となりが、費の宰に向いていない。上記のように、政治的に難しい場所に放りこまれて、子路などは「大臣という程でもないが、悪いことをするわけでもない」態度で世渡りができます(これぞ子路の政治力)が、はたして子羔はそれができるのか。

 子羔(しこう)とは高柴の字である。すなわち数条まえに、「柴や愚」と評せられた弟子である。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

 「馬鹿正直の高柴」と評された子羔が、もしも任地の仕事に本気で取り組んでしまえばどうなるでしょう。子路と同じく世渡り上手とされた冉求でさえ、夫子をして私の弟子とはいいづらい、と嘆かせたのです。逆臣のために働けるか、と仕事に手を抜いて領民を放置すれば道に反し、仕事に精を出せば道に反する。これを、「夫人之子」といわずにおれましょうか。


 といいつつ、

哀公十五年(480 B.C.) C

 (報告を受けた)季子(子路)が城門に入ろうとすると、外へ出る子羔(高柴)と出遇った。子羔が、「門はもう閉まっている」と言うと、子路は

 「ともかく行ってみる」

 「間に合いませんよ。わざわざ災難に遭いに行くのはおやめなさい」

 「禄をいただいている以上、災難を避けるわけには行かぬ」

 子羔はそのまま場外に出、子路は内に入った。

小倉芳彦『春秋左氏伝』下 岩波文庫
哀公十五年(480 B.C.) C

 孔子は衛の乱を耳にし、「柴(子羔)はきっと来るが、由(子路)は死ぬだろう」と言った。

小倉芳彦『春秋左氏伝』下 岩波文庫

 子羔もなかなか世渡り上手。というか、やっぱり子路が推挙したことで、こんな内乱に巻き込まれてしまったわけで、なかなか大変です。

2009-12-25

孔子

[][][][]先進第十一を読む(その19) 20:25 はてなブックマーク - 先進第十一を読む(その19) - 蜀犬 日に吠ゆ

顔淵、後る

 先進第十一(254~278)

275 子畏於匡。顔淵後。子曰。吾以女為死矣。曰。子在。回何敢死。

(訓)子、匡に畏(い)す。顔淵、後る。子曰く、吾れ女を以て死せりと為す。曰く、子在す。回、何ぞ敢て死せん。

(新)孔子が匡で災難に罹った。顔淵がはぐれて姿を消し、やっっとのことで追いついた。子曰く、お前はもう死んだのかと思っていた所だ。曰く、先生が生きておいでになる限り、回はどんなことでもして生きています。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 その後のことを知っているだけに泣ける話ですねえ。

 匡で危機に遭ったときの孔子の様子


 この章は顔淵の災難に処する道を述べたのである。

「匡人其れ予を如何せん。」といったのは孔子がこれを道に決したのである。「子在す。回何ぞ敢へて死せん。」といったのは顔子がこれを孔子に決したのである。各(おのおの)憑(よ)る所があるけれども、主とする所は同じである。(蒋畏庵)

宇野哲人『論語新釈』講談社学術文庫

 このへんが、顔回の、孔子への尊敬が深すぎて逆に眼に見えない「道」を見るのが不足してしまう部分なのではないでしょうか。しかし、夫子も顔回を認めているのであんまり細かいことは言わない、と。イケナイ師弟関係ですね。もしも孔子がこの場で命運尽きたら、その後を次ぐべき人物は別行動をとるくらいのリスクヘッジがあってもいいのではないでしょうか。


 なお「匡に畏す」の畏の字について、訓詁を補足すれば、「礼記」の「壇弓(だんぐう)」篇上に、「死して弔わざるもの三つあり、畏、圧、溺」とあり、その鄭玄の注に、「畏」とは、むじつの罪によって攻撃され、弁解できずに死んだ場合のことであって、孔子がかりに匡で死んだとしたら、それが「畏」であるとする。それは「圧」すなわち危険な山道を通行しての圧死、「溺」すなわち無謀な水泳による溺死とともに、自己の生命を尊重しないための、軽率な死であるから、弔問しないと、説いている。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

 右は、「畏」の字の訓詁の他の例として、「礼記」を引いたのであるが、「礼記」とこの条とを考えあわせれば、さらに二つの教訓を汲み取りうる。第一は、生命の尊重である。のちの衛霊公第十五の孔子の言葉には、「志士仁人は、生を求めて以って仁を害する無く、身を殺して以って仁を成す有り」と見え、武士道と結合した日本儒教では、この言葉のみが「論語」の教訓として、強調される傾きがあるが、実は論語の教えの全体ではない。「子在す、回何ぞ敢えて死せん」、この顔淵の言葉は、あんなにも自己の生命をいとおしまれる以上、私もあっさり死ぬわけには、まいりません、という意味を含みうる。第二は、不合理な暴力に対する合理的な抵抗の尊重であって、もし孔子が、このとき「畏死」したとするならば、「壇弓」の教えによる限り、弔問を受ける資格のない者、「弔われざる者」となったであろう。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

 生きぬくことは、時につらいものですが、戦い抜くことが尊い、と。

2009-12-24

[][][][]先進第十一を読む(その18) 19:42 はてなブックマーク - 先進第十一を読む(その18) - 蜀犬 日に吠ゆ

聞けば斯にこれを行う

 先進第十一(254~278)

274 子路問聞斯行諸。子曰。有父兄在。如之何其聞斯行之。冉有問聞斯行諸。子曰。聞斯行之。公西華曰。由也問聞斯行諸。子曰。有父兄在。求也問聞斯行諸。子曰。聞斯行之。赤也惑。敢問。子曰。求也退。故進之。由也兼人。故退之。

(訓)子路、聞けば斯(ここ)にこれを行う、(の語を)問う。子曰く、父兄の在(いま)すあり、これを如何ぞ其れ、聞いて斯にこれを行わんや。冉有、聞けば斯にこれを行う、を問う。子曰く、聞いて斯にこれを行うなり。公西華曰く、由や、聞けば斯にこれを行う、を問いしに、子曰く、父兄の在すあり、と。求や、聞けば斯にこれを行う、を問いしに、子曰く、聞いて斯にこれを行うなり、と。赤や惑う。敢えて問う。子曰く、求や退く。故にこれを進む。由や人を兼ぬ。故にこれを退く。

(新)子路が尋ねた。聞けば斯にこれを行う、という言葉がありますが、どういう意味を含んでいるのでしょうか。子曰く、父兄の存命中には、聞けばすぐにこれを行う、ということはあり得ないはずだ。冉有が尋ねた。聞けば斯にこれを行う、という言葉がありますが、どういう意味を含んでいるのでしょうか。子曰く、文字どおり、聞けばすぐにこれを行う、ことが大事だ。今度は公西華が尋ねた。由が、聞けば斯にこれを行う、の意味を尋ねた時に先生は、父兄が存命中のことを考えろ、と言われました。次に求が、聞けば斯にこれを行う、の意味を尋ねたときに先生は、聞けばすぐにこれを行え、と教えられました。赤は合点がまいりませんので、重ねてお尋ねしたいと思います。子曰く、求は引込み思案だ。だから元気をつけた。由は押しが強い。だからたしなめておいた。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 目ざすべきは中庸

 「聞斯行諸」、この四字の読み方は二つある。斯は此と同じであり、聞という動詞の目的語であるとして、斯れを聞けば諸(こ)れを行わんか、と読むのは皇侃であり、斯は則と同じであり、前提から結果への推移をあらわす助詞として、聞けば斯(すなわ)ち諸(こ)れを行わんか、と読むのは、邢昺その他である。後説の方がまさり、また普通の読み方でもある。いずれにしても、四字目の諸の字は、れいの如く、之乎の二字のつまったものとされる。つまり、聞斯行諸とは、聞ケバ則チ行ワン之レヲ乎、ということになる。なおこの場合、斯の字は則と大体同じであるけれども、前提から結果への推移が、則の字よりも、速度をもって、ひびく。聞則ならば、ただ、聞けば、であるが、聞斯ならば、聞けばすぐという気もちになる。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

 では何を聞き、何を行うのか。新注は、何かを聞けば、すぐそれを実行してよろしいか、と問うたのだと、解する。為政第二「義を見て為さざるは勇無きなり」が、その根拠となっているであろう。一方、古注に引く包咸は、災害の発生を聞いたならば、すぐ義捐金を出してよろしいか、とたずねたのだと解する。古い説ではあるけれども、必ず原義であるとはいえまい。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

 ということで、この言葉自体はいいのですが、だからといって、なんでもかんでも「やらずに悔やむより、やって悔やめ」精神では困ります。パグウォッシュ会議とか、やらかす前になんとかならなかったのでしょうか。

 ので、この章句の本題は教育者としての夫子。

 教条主義は、ただ一つの倫理を、相手かまわずに、押しつける。孔子はそうでなく、それぞれの相手の、性格なり環境を、よく考えて、それぞれに適切な教えを与えた。つまり人を見て法を説いた。そのことは、「論語」のあちこちに見えるが、この条は、もっとも明瞭である。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

2009-12-22

[][][][]先進第十一を読む(その17) 22:32 はてなブックマーク - 先進第十一を読む(その17) - 蜀犬 日に吠ゆ

迹を践まざれば、亦た室に入らず

 先進第十一(254~278)

272 子張問善人之道。子曰。不践迹。亦不入於室。

(訓)子張、善人の道を問う。子曰く、迹(あと)を践まざれば、亦た室に入らず。

(新)子張が善人の道は何かと尋ねた。子曰く、善人の歩いた迹をついて行かなければ、善人の室へは這入れない。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 述べて作らず、信じて古を好むと共通する内容と見てよいでしょう。

 善人は知者、賢人などと共に、仁者に次ぐ人格者。善人之道とは、先王之道、文武之道、古之道、夫子之道などの例に見られるように、善人の行った道、歩いた道と解してよいであろう。善人の道は善人の真似をすれば分かるのである。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 普通は、善人はさらに高い理想をもって聖人の道を歩むべきである、と解するようです。その場合、「不践迹。」を「迹を践まず。」とよんで聖賢の道を、それと知らずに歩いて(間違えないで)いる、とします。

 子張が善人の行う道を質問した。孔子が曰われるには、「善人は美しい天分を持っているから、聖賢の道に従って踏み行わないけれども、自然に道理にかなって悪事をしない。けれども、まだ学んでいないから美しい天分はあっても聖賢の道の奥義に達していないのである。」

宇野哲人『論語』講談社学術文庫

 夫子の考えでは、すでに道がいかなるものかは聖王の事蹟で明らかであって、あとはそれを実行するだけである、と学問はシンプルです。もちろん、聖王の事蹟を知るために学問をしなければなりませんが、その是非を論じる必要は全くない、迷わずいけよ、行けば分かるさ、の世界観なのでしょうね。


十二月二十日

完全な祝福は、これらの大昔の言葉に従ってどこまでも善い行いをした結果としてのみ与えられる。つまり、それらの神の言葉を実行することが福音なのである。すでに実に多くの人びとが、それを実行しようとした時、それ以前よりも幸福な生活に入ることができた。

ヒルティ著 草間平作・大和邦太郎訳『眠られぬ夜のために』第一部 岩波文庫
眠られぬ夜のために〈第1部〉 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために〈第1部〉 (岩波文庫)



君子者か。色荘なる者か

 先進第十一(254~278)

273 子曰。論篤是与。君子者乎。色荘者与。

(訓)子曰く、論の篤きに是れ与す、とあり。君子者か。色荘なる者か。

(新)子曰く、議論の篤実な方に是れ与す、という古語がある。その議論の篤実なものとは、教養ある君子のことだろうか、それともうわべだけ堂々たる人間のことだろうか。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 もちろん、昼寝する人への当てつけですけどね。


 加地先生は疑問をもたれる者を、議論を聞いた側とします。

その人の)いけんがりっぱだからというだけで、その人物を信用するならば、本物の教養人なのかな。見かけだけの者かな。

加地伸行『論語』講談社学術文庫

 ろくでもない人間でも、口先だけのいいことくらい言うことができます。だから、よくその人となりを判断しなければならない。もしも、うわべだけの言葉に踊らされるのであれば、無能の烙印を押されるのはあなたなのですよ、と。

2009-12-21

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子曰く、回や其れ屢々空しきに庶し

 先進第十一(254~278)

271 子曰。回也其庶乎。屢空。賜不受命。而貨殖焉。億則屢中。

(訓)子曰く、回や其れ庶いかな。屢々空し。屢々空しきに庶し。賜は命を受けずして貨殖す。億(はか)れば則ち屢々中(あた)る。

(新)子曰く、回は年中貧乏暮らしというところ。賜は命ぜられなくても、金儲けに熱心だ。彼の見通しは大てい的中する。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 通常の訓を正すのは久しぶり?

 賜、すなわち子貢は孔子学団の財政面担当者であったらしい。不受命の句を従来の注釈では、天命を受けぬことと解説するが、例によって牛刀を用いるの感を免れない。当時の金儲けと言えば、市場における商品の操作が主であり、投機的な要素が多かったと思われる。

 顔回の方は経済的手腕など全くなく、学団に貢献することはおろか、自分自身がいつも貧乏の標本になっていた。ここでも従来の注釈は、其庶乎(それちかいかな)の三字で句を切り、道に近い、という意味に解しようとする。少しでも多く道徳的説教に役立てようというのがその根本的態度である。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 しかし、たしかに貧乏でしたが「貧乏の標本」はひどいなあ。

 子貢が顔回の暮らしを援助したりしないのか、という疑問をもったこともあります。子路が就職の斡旋なども。顔回は全部断りそうですが、父顔路などを通して何とかなったりしなかったのでしょうか。孔子とともに流浪の旅をしたことを考えれば、全くの無一文というわけもなくて、普段曲阜にいるときはわざわざ無為の生活を行っていたのかも知れませんね。しかもそれがわざとらしくないので孔子がほめた、とすると分からないでもありません。