蜀犬 日に吠ゆ

2010-05-05

[][][][]季氏第十六を読む(その1419:17 はてなブックマーク - 季氏第十六を読む(その14) - 蜀犬 日に吠ゆ

邦君の妻

 季氏第十六(421~434)

434 邦君之妻。君称之曰夫人。夫人自称曰小童。邦人称之曰君夫人。称諸異邦曰寡小君。異邦人称之亦曰君夫人。

(訓)邦君の妻は、君よりこれを称して夫人と曰い、夫人自ら称して小童と曰い、邦人これを称して君夫人という。諸を異邦に称して寡小君と曰い、異邦人がこれを称するにも、亦た君夫人と曰う。

(新)大名の妻を、夫がよぶには夫人といい、夫人自らは小童ととなえる。人民はこれを君夫人とよび、他国に対する時は寡小君といい、他国からよぶ時にはやはり君夫人と称する。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 この条は論語の他の部分と比べて異質の内容をもつ。礼記にでも出てきそうな記録の断片であるが、論語を記した門人のメモが誤って混入したか、あるいは後世になって別の断簡が混入したものであろう。強いて孔子の言葉としてそこから教訓を引き出そうと努めるにも及ぶまい。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫


 以上で、学問を志すものが尊ぶ『論語』下論、この篇は斉論ではないかと疑う人があり、皆「孔子曰はく」と書いた所や三友(さんゆう)三楽(さんかい)三愆(さんえん)三戒(さんかい)三畏(さんい)九思(きゅうし)等をならべあげる所は他の篇と趣がちがう、すべて十四章ある「季氏」第十六は終わる。

2010-05-04

[][][][]季氏第十六を読む(その13) 18:54 はてなブックマーク - 季氏第十六を読む(その13) - 蜀犬 日に吠ゆ

問一得三

 季氏第十六(421~434)

433 陳亢問於伯魚曰。子亦有異聞乎。対曰。未也。嘗独立。鯉趨而過庭。曰。学詩乎。対曰。未也。不学詩。無以言。鯉退而学詩。他日又独立。鯉趨過庭。曰。学礼乎。対曰。未也。不学礼。無以立。鯉退而学礼。聞斯二者。陳亢退而喜曰。問一得三。聞詩聞礼。又聞君子之遠其子也。

(訓)陳亢、伯魚に問うて曰く、子も亦た異聞あるか。対えて曰く、未だし。嘗て独り立つ。鯉、、趨りて庭を過ぐ。曰く、詩を学びたるか。対えて曰く、未だし。(曰く)詩を学ばざれば、以て言うなし、と。鯉、退いて詩を学ぶ。他日又た独り立つ。鯉、趨りて庭を過ぐ。曰く、礼を学びたるか。対えて曰く、未だし。(曰く)礼を学ばざれば、以て立つなし、と。鯉、退いて礼を学べり。斯の二者を聞く。陳亢退き、喜んで曰く、一を問うて三を得たり。詩を聞き礼を聞き、又た君子の其の子を遠ざくるを聞けり。

(新)陳亢が孔子の子の伯魚(鯉)に尋ねた。先生について何か珍しい話題をお持ちですか。対えて曰く、それほどのことでもありませんが、先日父がひとりでほんやり立っていました。私がその前の庭を小走りで通りすぎました。詩を勉強したか、と聞かれましたので、まだです、と答えますと、詩を習わねば、物いうすべを知らぬぞ、と言われました。そこで私は自分で詩の勉強をしました。その後また父がひとりぼんやり立っていました。私がその前の庭を小走りで通りすぎました。礼を勉強したか、と聞かれましたので、まだです、と答えますと、礼を習わねば世間で一人前とされぬぞ、と言われました。そこで私は自分で礼の勉強をしました。このくらいのことです。陳亢は退出してから大喜びで話した。一つの質問で三つの知識を得た。詩のことを知り、礼のことを知り、先生は自分の子に手をとって教えないことを知った。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 さいごの句の説明としては、「孟子」の「離婁」篇上に、かの有名な条がある。「君子の、子に教えざるは何ゆえぞや」という公孫丑の問いに対し、孟子は答えていう。教育は正しさをもってしなければならないが、親の私生活をよく知っている子供は、お父さんは正義正義と子には押しつけながら、お父さん自身は、正義ばかりで生きていないじゃないかということになれば、父子は憎しみあうことになる。だから、「古えは子を易えて之れを教う」、お互いの子を取り換えて教育した。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

 「趨」という小走りは、あらたまった場所での礼儀作法ですから、これは孔子の私邸部分ではなく、教室の方だったのかも知れません。そう考えると、ぼんやり庭を見ている夫子と、あっちからこっちへしょっちゅう走り回っている息子の鯉という、なんだか戯画的な情景が浮かんできます。

 おもしろい条ではあるが、あとからつくられた話しのような感じをまぬがれない。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

 出来すぎである、ということでしょうか。

2010-05-03

[][][][]季氏第十六を読む(その12) 16:38 はてなブックマーク - 季氏第十六を読む(その12) - 蜀犬 日に吠ゆ

斉の景公には馬千駟あり

 季氏第十六(421~434)

432 (誠不以富。亦祇以異。)斉景公有馬千駟。死之日。民無徳而称焉。伯夷叔斉。餓于首陽之下。民到于今称之。其斯之謂与。

(訓)(誠に富を以てせず。亦た祇だ異を以てするのみ、とあり。)斉の景公には馬千駟あり。死するの日、民、徳として称するなし。伯夷、叔斉は首陽の下に餓う。民、今に到るまでこれを称す。其れ、斯の謂いか。

(新)誠に富は万能でない。その他にも大事なものがある、という古語がある。斉の景公は個人の財産として馬四千頭もあった。死んだ時、誰ひとりその恩をたたえる者がなかった。周の初めの伯夷、叔斉は首陽山の麓で餓死したが、天下の人民は現今に到るまで、その徳をたたえてやまぬ。古語は正にこのことをいっているのだ。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 288の最後の二句はこの条の初めに置かるべきものである。更にこの条のどこかに、子曰、の二字が落ちたと思われる。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

2010-05-02

[][][][]季氏第十六を読む(その11) 17:29 はてなブックマーク - 季氏第十六を読む(その11) - 蜀犬 日に吠ゆ

善を見ては及ばざるが如く

 季氏第十六(421~434)

431 孔子曰。見善如不及。見不善如探湯。吾見其人矣。吾聞其語矣。隠居以求其志。行義以達其通。吾聞其語矣。未見其人也。

(訓)孔子曰く、善を見ては及ばざるが如くし、不善を見ては湯に探るが如くす。吾れ其の人を見たり。吾れ其の語を聞けり。隠居して以てその志を求め、義を行いては以て其の道を達す。吾れその語を聞けり。未だ其の人を見ざるなり。

(新)孔子曰く、善を行う機会があれば、のがれられはせぬかと恐れるようにとびつく。不善を行う誘惑があれば、熱湯の中から物を取り出すときのように急いで手をひっこめる。そういう人間は私もこの目で見とどけたことがある。なおその他にも居るという話を聞いている。だが、ひっそりと暮して自分の生き方を生きる、正道をふんで自分のやり方に満足する、そういう人はこの世にいるという話は聞いているが、まだ実際に会った。ことがない

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

2010-05-01

[][][][]季氏第十六を読む(その10) 22:36 はてなブックマーク - 季氏第十六を読む(その10) - 蜀犬 日に吠ゆ

君子に九つの思いあり

 季氏第十六(421~434)

430 孔子曰。君子有九思。視思明。聴思聡。色思温。貌思恭。言思忠。事思敬。疑思問。忿思難。見得思義。

(訓)孔子曰く、君子に九つの思いあり。視るには明を思い、聴くには聡を思い、色は温を思い、貌は恭を思い、言は忠を思い、事は敬を思い、疑いには問うを思い、忿りには難を思い、得るを見ては義を思う。

(新)孔子曰く、諸君に九つの心掛けを注文したい。物を見るには細かい所まで見届け、聞く時ははっきりと、顔付きはおだやかに、身ぶりはつつましく、物言うときは真心こめて、仕事をするには注意深く、分らない点は質問を怠らず、腹がたっても後難を考え、最後に一番大事なのは、利益を前にしてそれが正当かどうかを一度考えてみることだ。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

2010-04-30

[][][][]季氏第十六を読む(その9) 21:00 はてなブックマーク - 季氏第十六を読む(その9) - 蜀犬 日に吠ゆ

困んでこれを学ぶ

 季氏第十六(421~434)

429 孔子曰。生而知之者。上也。学而知者。次也。困而学之。又其次也。困而不学。(民)於斯為下矣。

(訓)子曰く、生れながらにしてこれを知る者は上なり。学んでこれを知る者は次なり。困(くるし)んでこれを学ぶは、又た其の次なり。困んで学ばず、斯に於いて下と為す。

(新)孔子曰く、生れつき道を知る者があれば、それは最上だ。勉強した上でそれを知る者が次に位する。行き当ってから必要を感じて勉強しだすのが、またその次だ。行き当っても平気で、勉強しようとせぬのは最低だ。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 知らない、ということは罪ですよねえ。無知の涙。

 私など、自分が行き当たっていることに、小人ですからなかなか気づかないのですよ。自分の境遇を、他人のせいにしたり社会のせいにしたりして満足してしまうのです。だから、苦しみのない時でも、本当は少しでも難しい学問にチャレンジすべきなのでしょうけれどもね。なかなかね。