蜀犬 日に吠ゆ

2010-06-23

[][][][]堯曰第二十を読む(その3) 19:27 はてなブックマーク - 堯曰第二十を読む(その3) - 蜀犬 日に吠ゆ

命を知らざれば

 堯曰第二十(497~499)

499 子曰。不知命。無以為君子也。不知礼。無以立也。不知言。無以知人也。

(訓)子曰く、命を知らざれば、以て君子と為すなきなり。礼を知らざれば、以て立つなきなり。言を知らざれば、以て人を知るなきなり。

(新)子曰く、天命の存在を悟らなければ、学問をした君子とは言えない。礼を学ばなければ独立できない。物の言い方、聞き方を知った上でなければ、人物を見分けることができない。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 それぞれの解釈は、金谷先生を引きます。

孔子がいわれた、「天命が分からないようでは君子とはいえない。(心が落ちつかないで、利害に動かされる。)礼が分からないようでは立っていけない。(動作がでたらめになる。)ことばが分からないようでは人を知ることができない。(うかうかとだまされる。)」

金谷治『論語』岩波文庫

 以上で、論語終わり。しかし、終わりは始まりでもあります。

 徂徠は、この最後の章は、学而第一の最初の章と首尾応ずるのであり、「是れ編輯者の意也」、とする。いかにも「学んで時に之を習う」は、礼を知り、言を知る努力であり、「人知らずして慍らず」は、命を知る努力である。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

 『白鯨』的な、永劫回帰ですね。可哀想なホルもそうか。こういう構造をもつ文学は多い。『論語』もまた、一箇の文学であると言えましょう。学問の道に終わりはない。仰げば仰ぐほど弥よ高い、と言うことでしょう。

鏡のなかの鏡―迷宮 (岩波現代文庫)

鏡のなかの鏡―迷宮 (岩波現代文庫)


 以上で、学問を志すものが尊ぶ『論語』下論、すべて三章ある「堯曰第二十」はおわる。

2010-06-22

[][][][]堯曰第二十を読む(その2) 20:16 はてなブックマーク - 堯曰第二十を読む(その2) - 蜀犬 日に吠ゆ

五美を尊び、四悪を屏く

 堯曰第二十(497~499)

498 子張問於孔子曰。何如斯可以従政矣。子曰。尊五美。屏四悪。斯可以従政矣。子張曰。何謂五美。子曰。君子恵而不費。労而不怨。欲而不貪。泰而不驕。威而不猛。子張曰。何謂恵而不費。子曰。因民之所利而利之。斯不亦恵而不費乎。択乎労而労之。又誰怨。欲仁而得仁。又焉貪。君子無衆寡。無小大。無敢慢。斯不亦泰而不驕乎。君子正其衣冠。尊其瞻視。儼然人望而畏之。斯不亦威而不猛乎。子張曰。何謂四悪。子曰。不教而殺。謂之虐。不戒視成。謂之暴。慢令致期。謂之賊。猶之与人也。出納之吝。謂之有司。

(訓)子張孔子に問うて曰く、何如なれば斯に以て政に従うべきか。子曰く、五美を尊び、四悪を屏(しりぞ)くれば、斯に以て政に従うべし。子張曰く、何をか五美と謂う。子曰く、君子は恵んで費さず。労して怨まれず。欲して貪らず。泰にして驕らず。威あって猛からず。子張曰く、何をか恵んで費さずと謂う。子曰く、民の利とする所に因ってこれを利す。斯れ亦た恵んで費やさざるにあらずや。労すべきを択んでこれを労す。又た誰をか怨まん。仁を欲して仁を得。又た焉んぞ貪らん。君子は衆寡となく、小大となく、敢えて慢(あなど)るなし。斯れ亦た泰にして驕らざるにあらずや。君子は其の衣冠を正しくし、其の瞻視を尊(たか)くす。儼然として人望んでこれを畏る。斯れ亦た威あって猛からざるにあらずや。子張曰く、何をか四悪と謂う。子曰く、教えずして殺す、これを虐と謂う。戒めずして成るを視る、これを暴と謂う。令を慢(みだ)りにして期を致す、これを賊と謂う。これを猶(ひと)しく人に与うるなり。出納の吝かなる、これを有司という。

(新)子張が孔子に問うて曰く、何如にしたならば政治をうまく運用することができましょうか。子曰く、五つの善事に心掛け、四つの悪事に注意すれば、政治を運用するに有効です。子張曰く、五つの善事とは何々でしょうか。子曰く、為政者として、恩恵を与えるが浪費にならない。労働させるが怨まれない。欲望をみたしても貪欲にならない。自信がありながら謙虚にする。威厳があるが怖がられない。子張曰く、それらはどういう意味なのでしょうか。子曰く、人民が価値ありと思う所へ予算をつぎこむ。そうすれば恩恵を与えるが浪費にならない。労働する価値のある工事を択んで人民を使役すると、誰も怨む者がない。仁政を行おうと欲して仁政の名を得たからには、もうその上に望む何物もない。為政者たる者は人民の衆寡を論ぜず、土地の大小を問うなく、誰をも軽視することはない。これは自信がありながら謙虚だからであると言えよう。次に為政者たる者は、服装をきちんと整え、その顔色を正しくして、離れた所から見ると儼然とおごそかであって、尊敬の念を起こさせる。これは威厳があるが恐くはないと言えよう。子張が更に尋ねた、四つの悪事とはどういうことでしょうか。子曰く、教育しないでおいて悪いことをすれば死刑に処する。これを虐政という。放任しておいて成績をやかましく言う。これを暴政という。ゆっくり命令を出しておいて、実施を急がせる。これをだまし打ちという。官物を支給するのを自分の私物を与えるような顔をして、出来るだけ値切る。これを官僚主義という。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 冷静に考えると怒りがわくので、「孔子いいこと言うなあ」ぐらいにしておきます。

2010-06-21

[][][][]堯曰第二十を読む(その1) 21:20 はてなブックマーク - 堯曰第二十を読む(その1) - 蜀犬 日に吠ゆ

堯は曰く、咨、爾舜。天の暦数、爾の躬にあり

 堯曰第二十(497~499)

497 堯曰。咨爾舜。天之暦数在爾躬。允執其中。四海困窮。天禄永終。舜亦以命禹。曰。予小子履。敢用玄牡。敢昭告于皇皇后帝。有罪不敢赦。帝臣不蔽。簡在帝心。朕躬有罪。無以万方。万方有罪。罪在朕躬。周有大賓。善人是富。雖有周親。不如仁人。百姓有過。在予一人。謹権量。審法度。修廃官。四方之政行焉。興滅国。継絶世。挙逸民。天下之民帰心焉。所重民。食。喪。祭。寛則得衆。信則民任焉。敏則有功。(公)恵則説。

(訓)堯は曰く、咨(ああ)、爾舜。天の暦数、爾の躬にあり。允(まこと)に其の中を執れ。四海困窮せば、天禄永く終らん、と。舜も亦た以て禹に命ず。(湯は)曰く、予(われ)小子履、敢て玄牡(げんほ)を用いて、敢て昭(あき)らかに、皇皇たる后帝に告ぐ。罪あるは敢て赦さず。帝臣蔽わず。簡(えら)ぶこと帝の心にあり。朕が躬に罪あらば、万方を以てするなかれ。万方に罪あらば、罪は朕が躬にあり、と。周に大いなる賓(たまもの)あり。善人に是れ富めり。周親ありと雖も、仁人に如かず。百姓過ちあらば、予一人にあり。権量を謹み、法度を審(つまびら)かにし、廃れたる官を修め、四方の政行わる。滅びたる国を興し、絶えたる世を継ぎ、逸民を挙げ、天下の民、心を帰せり。民に重んずる所は食、喪、祭なり。寛なれば衆を得、信あれば民任ず。敏なれば功あり、(公)恵あれば説ぶ。

(新)堯は舜に言った。これ親愛なる舜よ。天が放った運命の矢はおん身に定ったぞよ。お前は宇宙の原則をしかと手に握って離すな。天下の人民が困窮するようなことが起れば、天の賜った幸福はそのまま立ち去って再び返って来ぬぞよ、と。その舜もまた同じように禹に命じた。(こんどは殷の湯王は)曰く、我、不束者の履は決意して黒牛を犠牲にして天を祀り、大胆にも天の皇皇たる主催者の后帝に物申す。罪人、夏の桀王は最早や許すことができませぬ。后帝の奴隷たる私は何も匿しだてをいたしませねば、凡ては帝の御心で定まります。もし私の身に罪がありましても、それは庶民に関わりのないことであります。もし庶民に罪がありましたならば、それは私自身の責任であります、と。周の代が大いに栄えたのは、善人が多かったからである。(武王曰く)周(したし)き親類よりも、仁人の方が信頼できる。百姓に過ちがあれば、それは私一人の責任である、と。そこで度量衡の制度を厳密に定め、法律を明確にし、福祉のための官を再興し、人民のための政治が成績をあげた。滅びた国を復興し、祀りの絶えた家に相続者を定め、隠れた賢者を捜して登用したので、天下之人民が明るい希望を持つようになった。その政治の原理は人民に必要なことは食物、葬式、追善であることを知って不自由させぬにある。また寛容なれば大衆がつき従い、信用を守れば人民が依頼し、骨惜しみをせねば能率が上り、恩恵があれば不満がないことを知って政治を行ったのであった。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 金谷先生はこれを三句に区切り、吉川先生は(長いので便宜的に)二句に分けます。それぞれ典拠がありませんが、確かに宮崎先生のようにつなげて読むと長いですよね。

 禅譲の際は、この文句を告げるのでしょうか。

 下論の最終章は、上論最終章の郷党第十よりさらに難解で、成立も後世ではないかと考えられています。郷党第十の謎の章とは最終章雉の臭いを三度嗅ぐ話のことと思われます。

何晏の「論語集解」の序によれば、「古論語」は、第二章以下を別の一篇とし、子張第二十一と題していたらしい。つまり前の子張第十九とあわせて、二つの子張篇があったことになる。そうしてその本の堯曰第二十は、今本の第一章だけであったことになる。

 いよいよ複雑怪奇であり、「論語」という書物が、整理され成立する最後の段階に於いて、二十というきちんとして篇数をそろえるため、雑多に書き加えられたのが、この篇であることを示しそうである。「荘子」の「天下」篇などのように、全書の後序、すなわち跋として書き加えられたという説なども、清の翟灝(てきこう)の「四書考異」その他にある。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

 まことに、複雑怪奇。

2010-06-20

[][][][]子張第十九を読む(その19) 18:58 はてなブックマーク - 子張第十九を読む(その19) - 蜀犬 日に吠ゆ

君子は一言、以て知と為し、一言、以て不知と為す

 子張第十九(472~496)

496 陳子禽謂子貢曰。子為恭也。仲尼豈賢於子乎。子貢曰。君子一言以為知。一言以為不知。言不可不慎也。夫子之不可及也。猶天之不可不可階而升也。夫子之得邦家者。所謂立之斯立。道之斯行。綏之斯来。動之斯和。其生也栄。其死也哀。如之何。其可及也。

(訓)陳子禽、子貢に謂いて曰く、子は恭を為すなり。仲尼は豈に子よりも賢ならんや。子貢曰く、君子は一言、以て知と為し、一言、以て不知と為す。言は慎まざるべからざるなり。夫子の及ぶべからざるや、猶お天の階して升るべからざるがごときなり。夫子にして邦家を得たらんには、所謂る、これを立つれば斯に立ち、これを道(みちび)けば斯に行き、これを綏(やす)んずれば斯に来り、これを動かせば斯に和ぐ。其の生くるや栄(はえ)あり、其の死するや哀しまる。これを如何んぞ其れ及ぶべけんや。

(新)陳子禽が子貢に言った。貴方は謙遜すぎる。孔子でも貴方より賢いとは言えますまい。子貢曰く、貴殿はただの一言で知者と思われ、また愚者と思われることがありますから、言葉を慎んで頂きたい。先生がお偉かったことは、天の高さにあって梯子をかけて升って行くことができぬようなものでした。もしも先生が一国の政治を自由にする地位を得られたなら、古い言葉に、(人民を)立てようとすればすぐ立ち、導こうとすればすぐ行き、招こうとすればすぐ来る。動かそうとすればすぐ従う、人はみな生きて栄あり、死んでは悲しまれる、とある通りにされたに違いありません。どうして、到底他人の及ぶところではありません。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 理想論。そこが子貢の魅力。


 以上で、学問を志すものが尊ぶ『論語』下論、皆弟子の言を記す。そして子夏が最も多く、子貢がこれに次いで登場し、孔子の門下では、顔子より以下には穎悟なること子貢に及ぶものはなく、曾子より以下には篤実なること子夏に及ぶものはないから特にこれを記すことが詳らかであるすべて二十五章ある「子張第十九」はおわる。

2010-06-18

[][][][]子張第十九を読む(その18) 18:40 はてなブックマーク - 子張第十九を読む(その18) - 蜀犬 日に吠ゆ

仲尼は日月なり。得て踰ゆるなし

 子張第十九(472~496)

495 叔孫武叔。毀仲尼。子貢曰。無以為也。仲尼不可毀也。他人之賢者。丘陵也。猶可踰也。仲尼日月也。無得而踰焉。人雖欲自絶。其何傷於日月乎。多見其不知量也。

(訓)叔孫武叔、仲尼を毀(そし)る。子貢曰く、以て為すなきなり。仲尼は毀るべからざるなり。他人の賢者は丘陵なり。猶お踰(こ)ゆべきなり。仲尼は日月なり。得て踰ゆるなし。人自ら絶たんと欲すと雖も、其れ何ぞ日月において傷(やぶ)らんや。多(まさ)に量の知らざるを見すのみ。

(新)魯の叔孫武叔が孔子を悪しざまに言った。子貢曰く、それは全く無用だ。孔子には悪口が通用しないのだ。世間で賢者といわれている人は、いわば小山のようなもので、歩いて乗りこえることができる。ところが孔子の高さは天上の日月のようなものだ。そこまで上って行く手段がない。さればと言って無視しようとしても、無視された方の日月は平然としていてびくともしない。かえって無視しようとした方が、身の程知らずであったことを暴露するにすぎない。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 子服景伯から「宮牆の譬え」を聞かされても、叔孫武叔は納得しません。「子貢先生はそうおっしゃるが、あんな孔丘なんてたいしたことないやい」とかなんとか。そこで子貢が出向いて話した話(なのだと思います)。「丘は孔夫子以外の、いわゆる一山いくらの御用学者にこそ譬えられるべきであり、夫子を語るのは日月を語るようなものです」と。魯の大夫だとか言ってみても、日月などからすればほんのちっぽけな存在でしかないですからね。

 夫子リスペクトの子貢に言い合いで勝てるはずもなく、叔孫武叔、二敗。

2010-06-17

[][][][]子張第十九を読む(その17) 21:11 はてなブックマーク - 子張第十九を読む(その17) - 蜀犬 日に吠ゆ

夫子の牆は数仞なり

 子張第十九(472~496)

494 叔孫武叔。語大夫於朝曰。子貢賢於仲尼。子服景伯以告子貢。子貢曰。譬之宮牆。賜之牆也及肩。窺見室家之好。夫子之牆数仞。不得其門而入。不見宗廟之美。百官之富。得其門者或寡矣。夫子之云。不亦宜乎。

(訓)叔孫武叔、大夫に朝に語りて曰く、子貢は仲尼よりも賢なり、と。子服景伯以て子貢に告ぐ。子貢曰く、これを宮牆に譬うれば、賜の牆や肩に及ぶ。室家の好きを窺い見る。夫子の牆は数仞なり。其の門を得て入るにあらざれば、宗廟の美、百官の富を見ず。其の門を得る者、或いは寡なしと、夫子の云える、亦た宜(うべ)ならずや。

(新)魯の叔孫武叔が朝廷で同僚の大夫たちと話している間に、子貢は孔子よりも賢い、と言った。子服景伯がそれを子貢に話した。子貢曰く、それはとんでもない。例えば邸宅の垣根で言うならば、私の垣根は肩の高さにすぎません。誰でも人はその上から、部屋の内部の奥深い所まで窺きこめます。先生の垣根の高さは数メートルもありますから、門から入っていくのでなければ、内部の建物、祖先を祭る宗廟の美しさ、部局に分れた財貨の蓄積の莫大なのを見ることができぬでしょう。かつて先生は、その門に入ることの出来る者は、甚だ少数に限られる、と申されましたが、まことにもっともなお言葉であったと思います。

宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫

 子貢の言葉はまるで「大器晩成」老子のようです。

 宮崎先生によば子貢の「宮牆」のたとえは先進篇堂に升れり。未だ室に入らざるのみを踏まえた者である由。直接的にこれではなくても、「門を得る者、或いは寡なしと」夫子が言ったということは、こうした譬喩はたびたびにおいてなされたと考えられます。子貢はそれをふまえてこうした説明を行ったのでしょう。


 「数仞」は、中国の度量衡に採録されていないので新字源(角川書店)を引くと、尋とおなじで七尺(一説には八尺)的なことがかいてあります。で、尋を引くと周代では八尺(日本では六尺)とあります。尋、というのは両腕を広げた長さであり、レオナルドによれば人体はその時正方形に内接しますから、ほぼ成人男子の身長に相当すると考えていいでしょう。孔子は背が高かったのですが、それはひとまずおいて、「数仞」はですから、子貢の牆が肩の高さであるのに比して孔子のそれは人の背丈の数倍であった、とこういう風に解釈するのがよさそうです。「数メートル」は間違いでないにしてもすこし杜撰ですぞ宮崎先生


 叔孫武叔は、魯の大夫の叔孫州仇であり、「左伝」では、定公十年に、自己の相続に異議を唱えた家臣公若の立てこもる都市、郈を包囲したという事件で、その名がはじめて見える。この年はすなわちまた、五十二歳の孔子が、同じく魯の重臣の一人として、魯侯の介添となり、夾谷の会見で斉侯をやりこめたことを、「左伝」が記す年である。(略)しからば、武叔は、孔子よりやや年の若い同僚であった。

吉川幸次郎『論語』下 朝日選書

 とするならば、孔子よりずいぶん若い子貢に心服するというのはあまり現実的ではないので、おそらく分かり易い例として引き合いに出したのでしょう。それで、子貢に「分かりやすい才気などというのは本物ではないですよ」とたしなめられてしまったのでしょう。