蜀犬 日に吠ゆ

2017-06-10

[][][]家島彦一『イブン・バットゥータの世界大旅行』平凡社新書 15:50 はてなブックマーク - 家島彦一『イブン・バットゥータの世界大旅行』平凡社新書 - 蜀犬 日に吠ゆ

 アブー・アブド・アッラー・ムハンマド・ブン・アブド・アッラー・ブン・ムハンマド・ブン・イブラーヒーム・ブン・ムハンマド・ブン・イブラーヒーム・ブン・ユースフ・アッラワーティー・アッタンジーによる『Tuhfat al-Nussar fi Ghara'ib al-Amsar wa 'Aja'ib al-Asfar(諸都市の新規さと旅の驚異に関する観察者たちへの贈り物)』、あるいは『Rihlat Ibn Battuta(イブン・バットゥータの旅(リフラ)』、普通はイブン=バットゥータの『三大陸周遊記(大旅行記)』で知られる書物を、日本語訳した筆者自らが解説。

 本編『大旅行記』は平凡社の東洋文庫で全8巻なので、とても読めないとして、まあ新書でお手軽にその旅行をなぞってみようという本であります。

 冒頭から、ウォーラーステインが提唱した「近代世界システム」と、そこから始まる論議の一つとしてアブー・ルゴドが打ち出した「前期的世界システム」の話で、懐かしい。私もてっきりウォーラステインにハマった口でして、ただこれを考察するには、学際領域の広範な知識と、各文化文明圏における多様な政治経済システムへの理解がなければ成らないため、挫折したのです。

 名著、臼井隆一郎『コーヒーが廻り、世界史が廻る』中公新書は、それをテーマ史としてわかりやすく落とし込んだ作品で、その後たくさん登場した「モノの世界史」の視点を切り開きました。それを方法論の本として読み取れなかった不明の日々よ。

閑話休題。その内容について、目次を引用。

『イブン・バットゥータの世界大旅行』 目次

  • はじめに … 9
  • 序章イ スラームと旅、移動 … 15
    • 1 旅の原点は何か … 16
    • 2 イスラーム教徒にとっての移動観 … 19
      • ヒジュラ/リフラ/ハッジ(メッカ巡礼)
    • 3 出会いの接点としてのイスラーム都市 … 33
  • 第一章 拡大する一三・一四世紀のイスラーム世界 … 39
    • 1 「前期的世界システム」の形成 … 40
      • 八つのサブ・システム/イスラーム世界と「パクス・モンゴリカ」の統合
    • 2 モンゴルの衝撃(インパクト)とディアスポラ(人間拡散) … 48
      • モンゴルの衝撃(インパクト)/人の移動と地域再編
    • 3 マムルーク朝経済圏の拡大 … 53
      • マムルーク朝の成立/国際間に生きるカーリミー商人
    • 4 つなぎの場としての海域世界――インド洋と地中海 … 63
      • インド洋海域世界/地中海世界
  • 第二章 『大旅行記』という書物 … 71
    • 1 巡礼紀行文学の発達 … 72
      • メッカ巡礼書について/イブン・ジュバイルとイブン・バットゥータの関連
    • 2 『大旅行記』の成立 … 79
      • イブン・バットゥータの生い立ちと生涯/晩年のイブン・バットゥータ
      • 『大旅行記』の編纂/編纂者イブン・ジュザイイについて
    • 3 写本と校訂本 … 94
      • 『大旅行記』の構成/『大旅行記』の研究
  • 第三章 イブン・バットゥータの旅(1)――タンジールからメッカまで … 103
    • 1 故郷タンジールを門出 … 104
      • ふるさとの町タンジール/マグリブ巡礼隊に参加/旅仲間との結婚、そして離婚
    • 2 マムルーク朝統治下のエジプトとシリア … 114
      • 将来の旅を予見する不思議な聖者との出会い/沙漠を貫く緑のベルト、ナイル川の旅
      • パレスティナ海岸の諸都市を経てダマスク明日へ/シリア巡礼道を通過してメディナへ
    • 3 最初のメッカ巡礼 … 128
      • メッカ到着の歓び/四回にわたるメッカ訪問
  • 第四章 イブン・バットゥータの旅(2)――中東世界からキプチャク大草原へ … 133
    • 1 イラクとイランの旅 … 134
      • アラビア半島縦断の旅/イラクのシーア派聖地/船でサワード地方を行く
      • イラン高原の旅/イル・ハーン朝下のイラク地方
    • 2 紅海からアラビア海へ … 148
      • 紅海を南下して/スワヒリ文化圏の形成/乳香木の茂る南アラビア
    • 3 トルコ・アナトリアと黒海沿岸 … 166
      • インドまでの大迂回ルートを探って/アナトリアの群小イスラーム侯国
      • 黒海を越えてクリミア半島へ/キプチャク・ハーン国とブルガールの旅
      • ビザンティン皇女とともにコンスタンティノープルへ

  • 第五章 イブン・バットゥータの旅(3)――中央アジアとインド … 181
    • 1 ヒンドゥー・クシュを越えてインドへ … 182
      • アジアの心臓部を行く/雪深いヒンドゥー・クシュを越えてインダス河畔に
      • インダス川流域の旅/デリー滞在の八年
    • 2 インドの南西海岸に沿って … 190
      • デリーを離れる/最大の危機に遭遇/海上交易で栄えるマラバール海岸
      • カーリクート港での惨劇
    • 3 南海の女王国を訪ねて … 201
      • 環礁の連なる島じま/群島の支配をめぐる抗争
    • 4 スリランカ、南インドを経てベンガルへ … 206
      • 宝石の国スリランカ/マァバル地方のマドゥライ・イスラーム王国を訪ねて
      • 黄金の三角地帯ベンガル
  • 第六章 イブン・バットゥータの旅(4)――東南アジアと中国 … 219
    • 1 ジャンクに乗って中国へ … 220
      • アンダマン海を行く/マラッカ海峡を制したスムトラ・パサイ王国
      • 南シナ海を北上し、一路泉州へ
    • 2 元朝支配下の中国 … 228
      • 泉州に上陸/運河を通ってハーン・バリークへ
    • 3 故郷モロッコへの帰還のたび … 234
      • 巨鳥ルフとの遭遇/インド洋横断の航海/四度目のメッカ巡礼の旅
      • 帰国を決意して地中海を渡る
  • 第七章 イブン・バットゥータの旅(5)――アンダルスとブラック・アフリカ … 245
    • 1 アンダルスの栄華 … 246
      • ジブラルタル海峡を渡る
    • 2 サハラ砂漠を越えてブラック・アフリカへ … 252
      • ブラック・アフリカ旅行の目的は何か/首都ファースを経てサハラ砂漠に踏み入る
      • マーッリーの王都はどこか/ニジェールの川旅
      • タッシリ・ナッジェールの高地を越える/ファース帰還
  • 結び イブン・バットゥータの旅の虚像と実像 … 271
      • 『大旅行記』の信憑性をめぐる議論/イブン・バットゥータの見た世界像
      • 旅の本来の目的は何か
  • あとがき … 285
  • イブン・バットゥータの旅の年譜 … 289
  • 参考文献 … 293
家島彦一『イブン・バットゥータの世界大旅行』平凡社新書

 と、読んでいて、晩年のイブン・バットゥータがサハラ縦断するくだり。地図の中に、

f:id:mori-tahyoue:20170610150412j:image

 14世紀なのに、「カカオ」って書いてあるー!*1

 本文にはカカオのことなどまったく出てきませんから、これは編集スタッフが用意した地図が19世紀以降のものだったのでしょう。ちょっとびっくりして「ヨーロッパに伝わってなかっただけで、イスラム圏ではもはや?」とかググってしまいました。

*1:カカオ豆、およびチョコレート・ココアは侵略者コルテスが新大陸アステカから持ち帰った

2017-05-07

[][]大森洋平『考証要集』文春文庫 2013 20:56 はてなブックマーク - 大森洋平『考証要集』文春文庫 2013 - 蜀犬 日に吠ゆ

 NHK の時代劇考証ディレクターの用語集。今まで勘違いしていた言葉遣いを指摘されて、目から鱗(新約聖書)の体験でした。

当たって砕けろ(あたってくだけろ)

 これは「go for broke」の訳語で、日本古来の言葉ではないのではないかと言われたが、江戸時代の浮世草子や芝居の台詞に用例がある。

大森洋平『考証要集』文春文庫
あります(あります)

 最近の「戦前ドラマ」では、陸海軍を問わず軍人にやたら「~であります」と言わせたがるが、これは正しくは旧日本陸軍の語法である。元は長州弁で、明治初期の陸軍が長州出身者だったことの名残と言われる。海軍では原則として使わない。(略)うっかり使うと「陸式(陸軍式のこと)はやめろ!」と修正された。

大森洋平『考証要集』文春文庫

 ……修正、ってアレですよねえ(精神注入!)。


グル(ぐる)

 江戸時代にはあるが、もっと古い時代の台詞なら「仲間」「一味」が安全。

大森洋平『考証要集』文春文庫

 これは完全に「group」だと思っていたので、語源が気になるところですね。


郷に入らば郷に従え(ごうにいらばごうにしたがえ)

 「Do in Rome, as the Romans do.」の訳語と思われがちだが、鎌倉期に成立したとされる『童子教』に記載がある。人情に東西の別なし。

大森洋平『考証要集』文春文庫
二都を追う者は一兎をも得ず(にとをおうものはいっとをもえず)

 これは明治一〇年以降の用例のみで、江戸時代にはなかった言葉らしい。時代劇で使うのは危険(北村孝一『ことわざの謎』光文社新書一九頁~)。英語では、"If you chase two rabbits, you miss both."というのがある(Ted Morgan "Valley of Death"p.591)。

大森洋平『考証要集』文春文庫

 などなど

2017-05-06

[][][][] 軽蔑すべき教師~~原田種成(たねしげ)『漢文のすすめ』新潮選書 21:00 はてなブックマーク -  軽蔑すべき教師~~原田種成(たねしげ)『漢文のすすめ』新潮選書 - 蜀犬 日に吠ゆ

 原田種成(たねしげ)『漢文のすすめ』新潮選書を読んでいたら、唐突に東京高等師範出身の先生がdisrespectされていましたので、ここに書き留めておきます。

 昭和七年四月、大東文化学院高等科*1に在籍したときに諸橋『大漢和』の編集メンバーに誘われて、雑司ヶ谷の諸橋教授のお宅に通う。

 メンバーには大東文化学院が多く、のちに刊行されたある書物に、「文理大*2の学生を編纂助手として」とあるところからしてやり玉に挙がる。

第二章 諸橋『大漢和』編纂秘話

(略)「昭和八年からは杉並区天沼(あまぬま)に家を一軒借り、文理大の学生を編纂助手として能率向上をはかった」とあかれているが、「昭和八年」は「昭和十年」の誤り、「文理大の学生」は天沼の編纂所には一人もおらず、すべて大東文化の出身者と在学生だけであったことをついでながら明らかにしておこう。おそらく、高等師範の出身者は漢文の読解力が不足していたkら『大漢和』の原稿作成に関与することはとうていできなかったであろう。資料蒐集(しゅうしゅう)時代に大東文化の学生は『周礼』『儀礼』『公羊伝(くようでん)』や『漢書』『後漢書』等の白文の原書から語彙カードを採取していたのに対し、たとえば、高師の学生だったK氏は先生から少年漢文叢書の返り点送り仮名のついている『論語』『孟子』を与えられて、語彙カードを作った思い出を書いていた――それほどの差違があったのである。

 高師は国漢科であるから、国語と漢文の両方を学習し、しかも就職に有利だからと修身や習字の免許を取るための学習もしていたから、漢文の力はあまり伸びなかったのである。大東文化の学生は、旧制中学時代から漢文が好きで、白文が読める力を持って進学し、更に高度の漢文を専攻したのであるから『大漢和』に引用する原文を読解することができたのである。

原田種成『漢文のすすめ』新潮選書

 なんといいますか、対抗意識を感じる。高師や文理大の学生は当然教授である諸橋先生の教えを直接受けているわけで、「少年漢文叢書」の話を見るに先生が優しく接しているのに対して大東文化の側は腹に一物かかえることになったのでしょうか。

 閑話休題(それはさておき)、原田先生、卒業後もしばらく辞書編纂にかかりきり。ですが生活のためには就職も考えなければなりません。始め明治大学附属中学校につとめます。

第二章 諸橋『大漢和』編纂秘話

 私は将来もずっと教員をしていくならば、明治中学も決して悪くはないが、まず公立中学校へつとめたいと考え、諸橋先生に相談した。すると、先生からちょうど高等師範の教え児の本村伝吉氏が府立十二中の校長をしていて、漢文教師を探しているからと、先生の推薦で十七年一月三十一日、東京府立十二中学校の教諭となった。本村校長は高等教員の免許所持者を教員に集めていたのである。十二中学は間もなく千歳中学と校名変更になった。

(中略)

 そして、十八年の六月ごろ、橋本氏から連絡があった。応召で欠員ができたから群馬師範へ来ないかという。下谷の金杉で生まれ、根岸の小学校から神田の中学、そして九段の大東文化学院と、私は東京を離れて暮らしたことはなく、昭和十五年に水戸中学から学院を通じて招聘があったときも、東京を離れたくなかったので断ってしまったくらいだ。しかし、橋本氏は岳父の恩師であり、私はあれやこれや考えた末、東京を離れる決心をした。官立専門学校に昇格した「師範学校教授」とは歴とした高等官である。私は家族をつれて親類縁者の一人もいない前橋に移り住むことにした。

原田種成『漢文のすすめ』新潮選書

 というわけで転勤。その群馬の話も面白いのですが、今回は転勤の際の所感。


第二章 諸橋『大漢和』編纂秘話

 私の場合、内閣の発令が、いつになるかわからなかったが、千歳中学本村伝吉校長に正式に申し出たところ、校長は何を考えていたのか、私の学級担任も授業科目も全部はずして、図書の整理をしてくれと言う。

 私は赴任の前日まで、心残りのないように精魂籠(こ)めた授業をして中学を去ろうと思っていたのに、その願いは踏みにじられて悔しくてたまらなかった。本村校長は転任が決まった教師は、真面目な授業をしないものと持っていたらしい。彼自身がそのような教師であったのかもしれない。

 本村校長は東京高等師範学校の国漢科出身で、四十代の初めに校長になり、有能な校長と思われていたが、私はかねてよりその教育観に疑問を抱いていた。あるとき校長が漢文の授業を担当したことがあった。その試験の監督を私がしたとき、校長は生徒がやまをかけるから各ページから一字ずつ読み方を出題するのだといった。私はそれを聞いてあきれてしまった。

 私は試験というものは、その範囲の中で一番大切なところ、一生涯覚えておく価値のあるところを出題すべきであると考え、また、実際、私の出題はそれに徹していた。それが教育であると信じている。校長のやり方は、教育効果ということをまったく考えないものであった。私は校長を心の中で軽蔑していた。

 体躯は堂々として豪傑ぶっていたが、もらった葉書を見ると、小さい字で隅のほうにチョコチョコと書いているので、見かけとは違って肝っ玉の小さい人物だと思っていた。

 人を信頼することができない小心な言動にいやになり、彼が勝手に決めた図書の整理などもまったくする気がなかったから、学校へは足を向けず、発令になるまで編纂室に出て辞典の仕事を続けた。

原田種成『漢文のすすめ』新潮選書

 まあ、そりが合わなかったのだなあ、という印象。あと、気に入らないからと学校行かないという豪傑ぶりもどうなのでしょうね?

*1:いまの大東文化大学

*2:高等師範の付属大学(!)

2016-08-14

[][]小寺聡『もういちど読む 山川倫理』山川出版社2011 21:39 はてなブックマーク - 小寺聡『もういちど読む 山川倫理』山川出版社2011 - 蜀犬 日に吠ゆ

 「洞窟の比喩」と「洞窟のイドラ」がいつも混乱する、曖昧な私です。こんばんは。

 山川出版社の倫理を読もうとしましたが、まず「まえがき」の部分を読んで立志の誓いを強化します。

ふたたび倫理を学ぶみなさんへ

 「人間はいかに生きるべきか」「人生はいかにあるべきか」という問いは、私たちが人生で直面するさまざまな問題のなかでも、いちばん基本にある問いといえます。それはまた、昔から古代ギリシアのソクラテスをはじめ、多くの優れた先人が生涯を通じて考え抜いた倫理の根本問題です。そして、この問題に対する先人の答えは、洋の東西を問わず、各人各様といってもよいほどさまざまです。ある人は個人の心のあり方を基準にして「人間の生き方」を考え、ある人は社会全体の福祉を基準にして「人間のあり方」を求めています。また、ある人は倫理的生活の中心を、自分が体験する身近な世界の中に見出し、ある人は現実の世の中を越えた視点から、真実の生き方とは何かを問題にしました。私たちが、こうした先人の真剣な思索の成果を学ぶ際に、もしも、それがただ過去の知識を習得することに終わるならば、倫理を学ぶことほど不毛でつまらないものはないでしょう。私たちが自分自身の心と行動のあり方を反省しながら、人間の生き方・あり方について主体的に問いすすめていくところに、倫理を学ぶ意義があるからです。

 倫理とは何かという質問に、「倫理」という言葉の意味を説明する答え方があります。たとえば「倫」とは「なかま」のことであり、「理」とは「筋道」のことをさしますから、倫理とは要するに人々の永年の経験が積み重なってできあがった、人間集団の規律やルールのことをさすと説明できます。倫理は私たちが他者とともに、人間らしく生きるための道筋を示すものといえます。私たちはこのような人として歩むべき道筋を過去の人びとから受け継ぎながら、未来の新しい時代に即した人間の生き方を探求しなければなりません。

 本書は高等学校の教科書として使われている『現代の倫理(改訂版)』をベースに、一般の読者を対象として明快な記述ながらも内容を深め、人生について思索する手がかりになるように改めました。また、先人の思想を理解する上での手助けになるように、彼らの言葉をコラムとして掲載しています。誰にでも読みやすく、この一冊で、人類史上に登場したおもな思想家たちの考えが把握でき、人類の精神史の全体像と、現代の倫理的課題が一望できる書物です。本書が現代人の一人ひとりにとって、みずからの生き方を考える上での一助となることを願っています。

小寺聡『もういちど読む 山川倫理』山川出版社2011

 あー。読点のリズムが私とは違うのですなあ。だから読みにくかったのか。すこしゆっくり読むのが(わたしにとっての)コツですね。

もういちど読む山川倫理

もういちど読む山川倫理



[][][]室町幕府の成立と南北朝の動乱について復習する(その4) 20:13 はてなブックマーク - 室町幕府の成立と南北朝の動乱について復習する(その4) - 蜀犬 日に吠ゆ

 ちと古い問題集ですが、復習していきます。

室町幕府の成立(Ⅰ)

(3) つぎの文を読み(  )に適語を記入し、下線部の設問に答えよ。

 南朝の( 1 *1)が北朝の後小松天皇に譲位することによって、3代将軍義満は、内乱に終止符をうつことに成功した。それだけではなく、義満は長い間公家政権が保持してきた京都の市政権、とりわけ(1)警察権・民事裁判権や( 2 *2)・土倉などにたいする商業課税権などをしだいに吸収していった。また、諸国に課する( 3 *3)の徴収権なども朝廷より引き継ぎ、全国的な統一政権としての幕府を確立した。1378年、(2)京都室町に壮麗な邸宅を構え、ここで政治をとったので、この幕府を室町幕府という。義満は将軍としてはじめて( 4 *4)という朝廷における最高の官職にのぼり、出家したのちも幕府や朝廷に対し実験を振るった。

 幕府の機構は、このころほぼととのい、鎌倉時代の政治機構を踏襲した政所・問注所・侍方や評定衆がおかれ、( 5 *5)がこれらの機関を統轄し、将軍を補佐した。(5)には(3)足利一門の有力守護が交代で任命された。鎌倉時代に比して、政所や問注所が権限を縮小したのに対し、侍所は京都内外の警備や刑事裁判を取扱う重要な機関となり、その長官は(4)四職から任命されるのが慣例であった。これらの有力大名はもっぱら在京して幕府の中枢を占め、重要政務を決定した。また一般の守護も領国は( 6 *6)に統治させ、自身は在京して幕府に出仕するのが原則であった。


設問(1) 公家政権下ではこの権限はどんな機関が行使していたか。令外の官名で答えよ。*7

  (2) この壮麗な邸宅は何とよばれたか。*8

  (3) この有力守護の姓をすべて記入しなさい。*9

  (4) 四職の姓をすべて答えよ。*10

『日本史総合テスト』山川出版社1998
  • 空欄補充

 1 後亀山天皇…全然わかりませんでした。南朝の天皇には「後」がつくのですよね。南北正閏論については以下に。

 2 「酒に関する商人だよなあ、、」まではわかりましたが、酒屋が出ない、、、

  • 設問

 (3)(4)三管領と四職は完全に混同している上に、あわせて4つしか思い浮かびませんでした。応仁の乱に際しての、お互いの関係は、絶望的ですね。


  • 南北朝合一について
室町幕府

南朝の後亀山天皇(在位1383~92)は義満の呼びかけに応じて京都に帰り、北朝の後小松天皇(在位1382~1412)に譲位するという形で南北朝の合一が実現した。和平の条件として将来は両統が交互に皇位につくと約束されたが、実現はしなかった。幕府は南朝の皇族をつぎつぎに出家させ、子孫を絶った。南朝の人々は深くこれを恨み、南朝の子孫や遺臣の反乱は、応仁の乱ころまで繰り返しおきていた。

五味文彦/髙埜利彦/鳥海靖 編『詳説 日本史研究』山川出版社1998

 これが「一休さん」が紅蓮(ぐれ)てしまった原因であり、義満が一休さんを呼び出しては無理難題をふっかける話につながるわけですね。


  • 南北朝正閏論について
南北朝正閏論

 後醍醐天皇が吉野に去ってから江戸時代の初めころまでは、北朝の正統性に疑問をもったり、南朝の存在をことさらに協調する学者は皆無であった。ところが儒学の名文論の進展から、両者の正閏を問題にする動きが現われた。

 当時の常識をくつがえして南朝正統を主張したのは水戸の『大日本史』で、神器をもつ者が即ち正当な皇位継承者、という考え方を提示した。これを受け継いだのが頼山陽の『日本外史』で、この書は明治の元勲たちに大きな影響を与えたといわれる。明治になると学問的な立場から南北朝並立論が現われ、1910(明治43)年制定の『尋常 日本歴史』も喜田貞吉(1871~1939)らによってこの立場で叙述されている。ところが南朝正当論者が国家主義者と結んでこれを問題視し、国民思想涵養上、南朝の正統を教育すべきであるとした。折からおこった大逆事件とも関連してことは政治問題に発展し、政府は翌年勅裁によって南朝正統を決定、教科書は改訂され、足利尊氏は逆賊と定められた。以後、皇国史観の伸展とともに南朝正統論は不動になり、太平洋戦争を迎える。

五味文彦/髙埜利彦/鳥海靖 編『詳説 日本史研究』山川出版社1998

↓ 以下の商品紹介は、新版

詳説日本史研究

詳説日本史研究

*1:後亀山天皇

*2:酒屋

*3:段銭(たんせん)

*4:太政大臣

*5:管領

*6:守護代

*7:検非違使(けびいし)

*8:花の御所

*9:三管領--斯波、細川、畠山

*10:山名、赤松、京極、一色

2016-08-13

[][][]室町幕府の成立と南北朝の動乱について復習する(その3) 19:49 はてなブックマーク - 室町幕府の成立と南北朝の動乱について復習する(その3) - 蜀犬 日に吠ゆ

 ちと古い問題集ですが、復習していきます。

室町幕府の成立(Ⅰ)

(2)つぎの文を読み( )に適語を記入し、下線部(a)~(g)にもっとも関係の深い語句を語群のなかから選んで、その記号を記せ。また、下線部(b)・(c)・(d)・(e)・(g)に関する下記の設問に答えよ。

 1336年、再度の挙兵で京都をおとしいれた足利尊氏は( 1*1 )を擁し、(a)当面の施政方針*2を示して武家政権の再興を目指した。2年後、征夷大将軍に任じられて正式に幕府を開いた尊氏は、具体的な法令の整備にも意を注ぎ、(b)追加法令*3を随時発していった。しかし、京都を逃れ皇位の正統を主張した( 2*4 )は、( 3*5 )に朝廷を開いて対抗したので、ここに南北二つの朝廷が並び立つことになった。


 動乱が(c)南朝側の形勢不利のうちに進行した*6にもかかわらず、約半世紀あまりもつづいた理由は、(d)北朝側の足利一族に内紛が生じ*7、そのときどきの都合に合わせて、一方が南朝と結んで戦ったためであった。他方、この動乱は当時の社会的変動と深くかかわっていた。すなわち、(e)武士団の血縁的結合から地縁的結合への転換*8、地方における中小武士の成長と(f)武力連合*9による荘園侵略や守護との対抗、荘園制の解体と農村の新しい共同体の成立など、これらが動乱の背後にあって対立の様相をいっそう複雑なものにしていた。それゆえ、諸勢力の対立抗争を経て新たな武家政治夫体制が成立するには、いまだ多くの年月を要したのである。(g)動乱が名実ともに収束するのは*103代将軍足利義満の時であった。

(語群)ア.荘園整理令  イ.観応の擾乱  ウ.惣領制の崩壊  エ.一味同心  オ.四條畷の戦い

カ.建武以来追加  キ.成功  ク.重任  ケ.建武式目  コ.受領の没落  サ.南北朝合体

(設問)(1) 下線部(b)について、尊氏が基本法典としたものは何か。*11

    (2) 下線部(c)について、常陸に拠点をおいて対抗した南朝側の武将は誰か。*12

    (3) 下線部(d)の内紛で、尊氏の執事と敵対した人物は誰か。*13

    (4) 下線部(e)の転換のなかで、武家社会の所領相続の形態はどう変わったか。*14

    (5) 下線部(g)の時期を西暦年で示しなさい。*15

『日本史総合テスト』山川出版社1998

 

*1:光明天皇

*2:ケ.建武式目(けんむしきもく)

*3:建武以来追加

*4:後醍醐天皇

*5:吉野

*6:オ.四條畷(しじょうなわて)の戦い

*7:イ.観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)

*8:ウ.惣領制の崩壊

*9:エ.一味同心

*10:サ.南北朝合体

*11:貞永式目(御成敗式目)

*12:北畠親房

*13:足利直義

*14:分割相続から単独相続へ

*15:1392年

2016-08-12

[][][]室町幕府の成立と南北朝の動乱について復習する(その2) 08:30 はてなブックマーク - 室町幕府の成立と南北朝の動乱について復習する(その2) - 蜀犬 日に吠ゆ

 ちと古い問題集ですが、復習していきます。

室町幕府の成立(Ⅰ)

(1)つぎのA・Bの文を読み( )に適語を記入し、下線部に関する設問に答えよ。

B 幕府滅亡後、後醍醐天皇は京都に帰り、新しい政治を行った。倒幕の論功行賞を行うため、新政府は中央に恩賞事務をあつかう(k *1 )を設置した。また、新政の目標は幕府や院政さらに(l*2 )をも否定して(7)天皇親政の理想を実現することにあった。しかし鎌倉幕府の遺産を無視することはできず、幕府の引付を継承した(m*3 )などを設置し、諸国には(n*4 )と守護を併置するなど公武協調による天皇親政の政治機構をととのえようとした。しかし後醍醐天皇の親政は、その発足の段階から破綻のきざしがあらわれていた。政府内部に足利尊氏と(o*5 )親王の対立がおこり、親王側が奥州に(p*6 )をつくると尊氏側が関東に(q*7 )をつくった。これらはともに小幕府的な存在で天皇の理想とはあいいれないものであった。さらに新政府が土地所有権の変更には必ず天皇の(r*8 )を必要としたことや文書重視の姿勢は(8)当時の武士社会の慣習を無視する結果となり、武士の離反をひきおこした。(9)政務の停滞による社会の混乱がつづくなかで、足利尊氏はひそかに武家政治再興の機会をうかがっていた。(10)1335年(s*9 )が関東で反乱をおこすと、これを機に尊氏はついに新政権に反旗をひるがえした。

「設問」(7) 後醍醐天皇が理想とした時代は、誰のどの時代か。*10

    (8) 武士社会には、土地所有権について、どのような慣習法があったか、簡潔に記せ。*11

    (9) 当時の世相の混乱を風刺した『建武年間記』所収の史料を何とよんでいるか。*12

    (10)この事件名を記しなさい。*13

『日本史総合テスト』山川出版社1998
  • 空欄補充

 k 恩賞事務をあつかう→恩賞方 はサービスかしら。いきなり雑書決断所(m)と間違えて、後ろまで読んで訂正したぜ!

 l 天皇親政のみが正しいというのは朱子学なのでしたっけ? 時事に絡めていうと、ここらへんが皇室典範の思想につながってくると思います。大覚寺統は後醍醐を除いて天皇と認められていないというのは「そういやそうだった。」くらいの感覚

 o 護良(もりよし)親王きました! (「もりなが」とも) この人学研の漫画で一人だけ古代コスプレしていたのですよね。太平記ではどうだったのか、あとで確認しよう。ようするに、聖徳太子の脇の子どもみたいな格好をしていて、そのまま土牢→処刑。

 q 奥州将軍府といえば北畠顕家ですね! 尊皇派! しかし多賀城においたというのはたぶん初めて知りました。

 

  • 設問

 (7) 村上天皇、、、そんなのいたね(不敬)

 (8) へ。なんで20年? あとで調べます。

 (9) 二条河原落書、好き。

 (10)  中先代の乱(北条氏が先代、足利氏が後代なので称された)というあたり、もう鎌倉幕府は北条氏のものであったのだ、という武断政治の感覚がひしひしと伝わってきます。ようするにここで勝利すれば、まったく問題なく鎌倉幕府が再興していたのではないでしょうか。護良親王は、あんまり関係なかったのでは。

*1:恩賞方

*2:摂政関白

*3:雑訴決断所

*4:国司

*5:護良

*6:陸奥将軍府

*7:鎌倉将軍府

*8:綸旨

*9:北条時行

*10:醍醐(延喜の地)・村上天皇(天暦の治)

*11:20ヵ年以上、土地支配の事実があれば、所有権は変更できない。

*12二条河原落書

*13:中先代の乱