蜀犬 日に吠ゆ

2017-10-08

[][]心構え~~藤野彰・曽根康雄(編著)『現代中国を知るための44章』明石書店 20:23 はてなブックマーク - 心構え~~藤野彰・曽根康雄(編著)『現代中国を知るための44章』明石書店 - 蜀犬 日に吠ゆ

転変する現代中国をどうとらえるか――まえがきにかえて

長いこと、ジャーナリストとして中国問題を取材、研究してきたとはいえ、ほとんど初めて中国について、ある種の先入観やバイアスを抱きつつ学び始める学生たちに、どのようにこの複雑怪奇な大国を理解してもらうかは結構難儀な仕事だ。そこで、毎年、開講時には「現代中国を見る心構え」と題して、まず以下の10ヵ条を説くことにしている。

  1. 中国は一つの国であるが、一つの世界であり、日本とはいろいろな意味でスケールが違う。
  2. 日本人の常識を基準として中国を見ない。国が違えば価値観も習慣も異なる。
  3. 世界は時々刻々と変化している。旧来の固定観念で中国を判断しない。
  4. 好き嫌いはともかく、日中は互いに引っ越しできない隣人同士であり、中国は日本の生存と発展にとってきわめて重要なファクターである。
  5. 環境、エネルギー、食糧など、どの問題をとっても、中国の動向は世界に影響を及ぼす。中国問題を考えることは世界の行方を考えることにつながる。
  6. 横軸(空間)と縦軸(歴史)の二つの目で中国をとらえる。近視眼的な目で見てはいけない。
  7. 事実に基づき、できるだけ自分の目で現象を観察し、判断する。メディアや他人の情報、評価にそのまま引きずられない。
  8. 常に「どうしてこうなのか」という疑問を抱き、多様な角度から中国を考察する。
  9. 実際に中国を体験し、イメージと現実の落差を修正する努力を重ねる。
  10. 普通の中国人は何を考えているのかを知る。地域研究とは人間研究である。

 これらのことは、何もえらそうに人に教え諭すといったようなものではなく、私自身が中国問題を報道し、中国について書いたり語ったりするさいに常々自戒してきたことだ。中国を専門分野とするジャーナリスト、研究者といっても、普通の人間である以上、いつも冷静に対象を観察したり分析したりできるわけではなく、ときには主観や感情に足元をすくわれて視点のバランスを失することがある。できるだけ、そういうことにならないよう気をつけなければいけないとの自分に対する警告だ。

藤野彰・曽根康雄(編著)『現代中国を知るための44章』明石書店

 この警告は、常に(中国関係ないときでも)心掛けておくべきでしょうね。

現代中国を知るための44章【第5版】 (エリア・スタディーズ8)

現代中国を知るための44章【第5版】 (エリア・スタディーズ8)

2017-09-04

[][][]スンナ派の四学派について 17:40 はてなブックマーク - スンナ派の四学派について - 蜀犬 日に吠ゆ

 ハナフィー派、マーリク派、シャーフィイー派、ハンバル派。

 現在の私の理解。

  • 四学派
    • それぞれがイスラーム各国で共存している。
    • 学派によってシャリーアは異なる。法官はおのれの学派に基づいて判断を下す。
    • コーランに全ての状況が網羅されているわけではないので、ムスリムは常に判断を迫られる。その基準の違いが学派をうみだした。
  • ハナフィー派
    • 地域の慣行や個人的見解(ラーイ)を広く採用し、商業活動による富の獲得にも寛大な理解を示す。
    • セルジューク朝やオスマン朝では積極的に取り入れられた。
  • マーリク派
    • ハディースよりもマディーナの慣行を重視する。
    • 穏健ではあるが、慣行を逸脱した背教者に容赦しない。
  • シャーフィイー派
    • 類推(キヤース)を法源とする理論を確立。
  • ハンバル派
    • ハディースの厳密な解釈、合意(イジュマー)の範囲の限定、イスラーム神秘主義の厳しい批判.
    • マムルーク朝で重要視され、ワッハーブ運動につながる。

 とりあえず、佐藤先生のまとめを読んでおきます。

イスラーム法の形成

 八世紀から九世紀へかけて、法学者たちはクルアーンやハディースを典拠にして、それぞれ独自のイスラーム法(シャリーア)をつくりあげていった。体系化の過程では、クルアーン、スンナ(預言者の言行、つまりハデイィース)、イジュマー(学者たちの合意)を基礎にキヤース(類推)*1も方言として採用されたが、これ以外に各地に固有な慣行(アーダ)も考慮された。これらのいずれを重視するかによって、法解釈の違いが生じ、さまざまな法学派(マズハブ)が誕生することになった。

佐藤次高『イスラーム 知の営み』イスラームを知る1 山川出版社

 各地の慣行もまた重視されるあたりが、イスラームの柔軟さをあらわしていますね。八世紀から九世紀というのはウマイヤ朝(661~750)によるアラブ帝国が領域を拡大*2した時期から、アッバース朝(750~1253)の衰退期。イスラームとは何か(ウマイヤ朝(西カリフ国)やシーア派をどうとらえたらよいのか)が課題として出された時期なのかな、と考えずにはおれません。


イスラーム法の形成

 シャリーアの書には、食生活や沐浴・礼拝・断食などの宗教儀礼、結婚と離婚、葬儀、遺産相続、裁判、刑罰、租税、戦争の問題など、信者の生活に関わる事柄全般があつかわれている。したがってシャリーアは、信者に生活の指針を示す倫理の書であると同時に、裁判官(カーディー)が拠り所とする実定法としての性格も備えていたといえよう。

佐藤次高『イスラーム 知の営み』イスラームを知る1 山川出版社
イスラーム法の形成

 大事なことは、一つの国家に一つのシャリーアが適用されたのではなく、一つの国家には複数のシャリーアが存在していたことである。裁判は、被告が属する法学派の法規定に従って執行されるのが原則であった。イスラーム世界では、どの国家でも単一のシャリーアが施行されたかのように思われがちであるが、各学派はそれぞれ独自の法体系をもち、個々の法が社会の中で実際に用いられていたことに注目すべきである。

佐藤次高『イスラーム 知の営み』イスラームを知る1 山川出版社

 葦の髄から作り上げた常識が吹っ飛ぶ。裁判官(カーディー)は、四法学派をそろえていて、自分で選べるのでしょうか? もしくは裁判官(カーディー)がそれぞれの学説に通暁していて被告の立場によって判断を変えると言うことなのでしょうか。

 前者であるとすれば、被告人は自分に都合の悪い判決には論争を挑むことができるはず、です。四学派以外で異端でない学派では無誤謬であると言い張ったらどうするのでしょう。

 後者のような法学者は、以下に示すようにあり得ません。いずれかの学派で徹底しなければイスラーム法学を修めることはできないのですから。

 いったい、イスラームの国家と法制はどのようになっているのか。学んだつもりが謎が増えるばかりです。

 つづいて、谷口先生の解説

宗派の形成と学問修得方法の定式化

 九世紀前半の異端審問をともなった論争の末に、ムスリムの多数派の間では伝統主義的な考え方が優勢となった。この流れを受けて、続く十・十一世紀には伝統主義的な立場から神学や法学などの分野で学説が整えられて

いった。他方、シーア派においても十・十一世紀は、基本的な教義が成立していった時期である。

谷口淳一『聖なる学問 俗なる人生 中世のイスラーム学者』イスラームを知る2 山川出版社
宗派の形成と学問修得方法の定式化

(前略)シーア派の活動に対抗するなかで、これらの分派活動に与しなかった人びとは、伝統主義の延長線上に独自の教義を発展させていった。十一世紀以降、神学ではアシュアリー学派とマートゥリーディー学派*3が主流派の位置を占めるようになった。方角においては、シャーフィイー学派、ハナフィー学派、ハンバル学派、マーリク学派の四大法学派が成立していった。こうして、分派に属さない多数派は、独自の教義体系を持つスンナ派という宗派を形づくるようになったのである。このように、イスラームの歴史においては、主流派が形成されてから分派が分かれていったのではなく、まず分派が形成され、そのあとに多数派が宗派と呼べる実態を獲得していったわけである。


 かくして、十世紀から十一世紀にかけて、現在にいたるイスラームの宗派の基本的な枠組みとそれぞれの基礎となる教義が成立していった。言い換えれば各宗派の学問体系が整ってきたということであり、それはさらに学問方法の定式化を招いたと考えられる。このことを間接的に示すのが、この時期以降目立つようになる学問方法を論じた著作物である。このような著作はスンナ派だけでなくシーア派の学者によっても著されており、しかもその内容には共通する点が多い。彼らが学問の方法としてとくに重視しているのは、読誦すること、暗記すること、師につくことの三点である。

谷口淳一『聖なる学問 俗なる人生 中世のイスラーム学者』イスラームを知る2 山川出版社

 まとめますと、「神学と法学は区別される」ということ。「法学派とは、学問体系を異にする」ということ。えーと、四法学派とは、文学と数学や、舎密学と民俗学のように異なっているのでしょうかね。

 「読誦すること、暗記すること、師につくことの三点である。」はなんかかっこいいですが、日本の葬式仏教もそんな感じと言えばそんな感じですよね。

イスラーム法の形成

 ここでは、法学派誕生のようすとそれぞれの派の特徴をまとめてみよう。まずハナフィー派について。この学派の祖となったアブー・ハニーファ(六九九頃~七六七)は、イラク中部のクーファで法学や神学を学び、この州都における法学の第一人者とみなされるようになった。ハナフィー派は他の学派より地域の慣行や個人的見解(ラーイ)を広く採用し、商業活動による富の獲得にも寛大な理解を示した。トルコ人のセルジューク朝(一〇三八~一一九四年)やオスマン朝は、このハナフィー派を積極的に支持したことで知られる。

佐藤次高『イスラーム 知の営み』イスラームを知る1 山川出版社

 699~767でイラクに住んでいると、まさにウマイヤ→アッバースの易姓革命(クライシュ族内のウマイヤ家→ハーシム家アッバス)を目の当たりにし、シリアのダマスカスからバグダードへの遷都を経験した人ですねえ。地域の慣行(アーダ)の重視は、シーア派やマワーリー(周辺民の改宗者)の協力で革命を成したアッバース朝にも都合がよかったのでしょうね。


イスラーム法の形成

 マディーナのマーリク・ブン・アナス(七〇九頃~七九五)は、ハディースに依拠するよりは、マディーナ社会の慣行こそそこの人々の個人的な意見を重視して、マーリク派法学の体系化を推し進めた。その規定自体は概して穏健であったが、慣行から逸脱する過激派には厳しく、またイスラームを捨てた背教者は死に値するとみなしたという。

佐藤次高『イスラーム 知の営み』イスラームを知る1 山川出版社

 穏健と言いますが、マディーナ(メディナ、ヤスリブ)の慣行というのはムハンマド以前(無明時代、ジャーリヒーヤ)を含む「アラブ主義」なのではないでしょうかね。同じようにアッバス朝の易姓革命(750)に立ち会って、アラブ帝国からイスラム帝国への変容に異議を唱える学派なのかもしれませんよ。これは。ただ、背教者って誰でしょう。ここまでイスラムイスラムしているところで、マディーナあたりで背教する人がまだいたのかしらん。

 谷口先生が解説してました。

ハディース学と法学の発展

 アッバース革命は、一部のシーア派勢力と提携し、「ムハンマド家による支配」の実現を旗印に支持を集め、七四九年ウマイヤ朝から政権を奪取することに成功した。しかい、権力を握った一族がシーア派の痛いしたムハンマドの子孫ではなく、ムハンマドの叔父アッバースの末裔であったことから、シーア派の諸勢力はアッバース朝政権の正統性に疑問を投げかけた。

谷口淳一『聖なる学問 俗なる人生 中世のイスラーム学者』イスラームを知る2 山川出版社
ハディース学と法学のはじまり

 このような状況のなかから、八世紀前半には地域ごとに法学についての一定の合意が形成されてきた。これを初期法学派あるいは前法学派などと呼ぶ。代表的な学派としては、ヒジャーズ学派とイラク学派が知られている。マッカ(メッカ)・マディーナ(メディナ)両聖地を擁するヒジャーズ地方では、預言者や教友のスンナなど伝統的な慣習を拠り所として重視する学風が主流であった。一方、征服活動によってイスラームに組み込まれたイラクは自然環境の面でも社会や文化の面においても、ヒジャーズとは非常に異なった地域であった。従ってこの地では、クルアーンや預言者のスンナだけでなく現地の慣習も重視しながら、学者個人の見解による推論を積極的に取り入れる立場が優勢となっていった。

谷口淳一『聖なる学問 俗なる人生 中世のイスラーム学者』イスラームを知る2 山川出版社

 イラクは、もともとササン朝ペルシアですからねえ。アラブの常識だ!で論破は難しかったのでしょう。

 はい次

イスラーム法の形成

 エジプトのフスタートに居を定めたシャーフィイー(七六七~八二〇)は、アブー・ハニーファやマーリクが採用する「個人的な意見」を恣意的であるとして退け、独自の法学書『母の書』(キターブ・アルウンム)を著した。彼のもとには厳密な類推(キヤース)の方法を確立した新法源論に共鳴する弟子たちが集まり、やがて法学派としてのシャーフィイー派が成立する。

佐藤次高『イスラーム 知の営み』イスラームを知る1 山川出版社

 少し遅れて、革命を知らない子供たちの世代。

 折衷案かしら。各地の慣行(アーダ)を法学者の類推(キヤース)で判断してもいいけど、それには一定の手続きが必要。

イスラーム法の形成

 ハンバル派の祖となったイブン・ハンバル(七八〇~八五五)は、「創造されたクルアーン」説を唱えるムータズィラ派神学を断固否定したために、二年間におよぶ投獄生活をよぎなくされた。ハンバル派の特徴は、ハディースの厳密な解釈、合意(イジュマー)の範囲の限定、イスラーム神秘主義の厳しい批判などにある。この思想は、マムルーク朝時代のイブン・タイミーヤ(一二六三~一三二八)をへて、原始イスラームへの回帰を説いたムハンマド・ブン・アブド・アル・ワッハーブへと継承されていく。

佐藤次高『イスラーム 知の営み』イスラームを知る1 山川出版社
イスラーム法の形成

 スンナ派の法学派はこれ以外にいくつも結成されたが、主要なものは以上の四学派である。

佐藤次高『イスラーム 知の営み』イスラームを知る1 山川出版社

 あと、神学と歴史学(ハディース学)についても両書に記述がありますが、あとで読む。


イスラーム―知の営み (イスラームを知る)

イスラーム―知の営み (イスラームを知る)

*1:法学者の個人的な見解ではなく、クルアーン、スンナ、イジュマーのいずれかにもとづく厳密な類推をキヤースという。シャーフィイーによって、その方法が確立された。

*2:フランク王国に侵攻したトゥール・ポワティエが732年

*3:9・10世紀に中央アジアのサマルカンドで活動したマートゥリーディーに始まるスンナ派神学の一派。セルジューク朝の勢力拡大とともに西方へ伝播した。

2017-06-10

[][][]家島彦一『イブン・バットゥータの世界大旅行』平凡社新書 15:50 はてなブックマーク - 家島彦一『イブン・バットゥータの世界大旅行』平凡社新書 - 蜀犬 日に吠ゆ

 アブー・アブド・アッラー・ムハンマド・ブン・アブド・アッラー・ブン・ムハンマド・ブン・イブラーヒーム・ブン・ムハンマド・ブン・イブラーヒーム・ブン・ユースフ・アッラワーティー・アッタンジーによる『Tuhfat al-Nussar fi Ghara'ib al-Amsar wa 'Aja'ib al-Asfar(諸都市の新規さと旅の驚異に関する観察者たちへの贈り物)』、あるいは『Rihlat Ibn Battuta(イブン・バットゥータの旅(リフラ)』、普通はイブン=バットゥータの『三大陸周遊記(大旅行記)』で知られる書物を、日本語訳した筆者自らが解説。

 本編『大旅行記』は平凡社の東洋文庫で全8巻なので、とても読めないとして、まあ新書でお手軽にその旅行をなぞってみようという本であります。

 冒頭から、ウォーラーステインが提唱した「近代世界システム」と、そこから始まる論議の一つとしてアブー・ルゴドが打ち出した「前期的世界システム」の話で、懐かしい。私もてっきりウォーラステインにハマった口でして、ただこれを考察するには、学際領域の広範な知識と、各文化文明圏における多様な政治経済システムへの理解がなければ成らないため、挫折したのです。

 名著、臼井隆一郎『コーヒーが廻り、世界史が廻る』中公新書は、それをテーマ史としてわかりやすく落とし込んだ作品で、その後たくさん登場した「モノの世界史」の視点を切り開きました。それを方法論の本として読み取れなかった不明の日々よ。

閑話休題。その内容について、目次を引用。

『イブン・バットゥータの世界大旅行』 目次

  • はじめに … 9
  • 序章イ スラームと旅、移動 … 15
    • 1 旅の原点は何か … 16
    • 2 イスラーム教徒にとっての移動観 … 19
      • ヒジュラ/リフラ/ハッジ(メッカ巡礼)
    • 3 出会いの接点としてのイスラーム都市 … 33
  • 第一章 拡大する一三・一四世紀のイスラーム世界 … 39
    • 1 「前期的世界システム」の形成 … 40
      • 八つのサブ・システム/イスラーム世界と「パクス・モンゴリカ」の統合
    • 2 モンゴルの衝撃(インパクト)とディアスポラ(人間拡散) … 48
      • モンゴルの衝撃(インパクト)/人の移動と地域再編
    • 3 マムルーク朝経済圏の拡大 … 53
      • マムルーク朝の成立/国際間に生きるカーリミー商人
    • 4 つなぎの場としての海域世界――インド洋と地中海 … 63
      • インド洋海域世界/地中海世界
  • 第二章 『大旅行記』という書物 … 71
    • 1 巡礼紀行文学の発達 … 72
      • メッカ巡礼書について/イブン・ジュバイルとイブン・バットゥータの関連
    • 2 『大旅行記』の成立 … 79
      • イブン・バットゥータの生い立ちと生涯/晩年のイブン・バットゥータ
      • 『大旅行記』の編纂/編纂者イブン・ジュザイイについて
    • 3 写本と校訂本 … 94
      • 『大旅行記』の構成/『大旅行記』の研究
  • 第三章 イブン・バットゥータの旅(1)――タンジールからメッカまで … 103
    • 1 故郷タンジールを門出 … 104
      • ふるさとの町タンジール/マグリブ巡礼隊に参加/旅仲間との結婚、そして離婚
    • 2 マムルーク朝統治下のエジプトとシリア … 114
      • 将来の旅を予見する不思議な聖者との出会い/沙漠を貫く緑のベルト、ナイル川の旅
      • パレスティナ海岸の諸都市を経てダマスク明日へ/シリア巡礼道を通過してメディナへ
    • 3 最初のメッカ巡礼 … 128
      • メッカ到着の歓び/四回にわたるメッカ訪問
  • 第四章 イブン・バットゥータの旅(2)――中東世界からキプチャク大草原へ … 133
    • 1 イラクとイランの旅 … 134
      • アラビア半島縦断の旅/イラクのシーア派聖地/船でサワード地方を行く
      • イラン高原の旅/イル・ハーン朝下のイラク地方
    • 2 紅海からアラビア海へ … 148
      • 紅海を南下して/スワヒリ文化圏の形成/乳香木の茂る南アラビア
    • 3 トルコ・アナトリアと黒海沿岸 … 166
      • インドまでの大迂回ルートを探って/アナトリアの群小イスラーム侯国
      • 黒海を越えてクリミア半島へ/キプチャク・ハーン国とブルガールの旅
      • ビザンティン皇女とともにコンスタンティノープルへ

  • 第五章 イブン・バットゥータの旅(3)――中央アジアとインド … 181
    • 1 ヒンドゥー・クシュを越えてインドへ … 182
      • アジアの心臓部を行く/雪深いヒンドゥー・クシュを越えてインダス河畔に
      • インダス川流域の旅/デリー滞在の八年
    • 2 インドの南西海岸に沿って … 190
      • デリーを離れる/最大の危機に遭遇/海上交易で栄えるマラバール海岸
      • カーリクート港での惨劇
    • 3 南海の女王国を訪ねて … 201
      • 環礁の連なる島じま/群島の支配をめぐる抗争
    • 4 スリランカ、南インドを経てベンガルへ … 206
      • 宝石の国スリランカ/マァバル地方のマドゥライ・イスラーム王国を訪ねて
      • 黄金の三角地帯ベンガル
  • 第六章 イブン・バットゥータの旅(4)――東南アジアと中国 … 219
    • 1 ジャンクに乗って中国へ … 220
      • アンダマン海を行く/マラッカ海峡を制したスムトラ・パサイ王国
      • 南シナ海を北上し、一路泉州へ
    • 2 元朝支配下の中国 … 228
      • 泉州に上陸/運河を通ってハーン・バリークへ
    • 3 故郷モロッコへの帰還のたび … 234
      • 巨鳥ルフとの遭遇/インド洋横断の航海/四度目のメッカ巡礼の旅
      • 帰国を決意して地中海を渡る
  • 第七章 イブン・バットゥータの旅(5)――アンダルスとブラック・アフリカ … 245
    • 1 アンダルスの栄華 … 246
      • ジブラルタル海峡を渡る
    • 2 サハラ砂漠を越えてブラック・アフリカへ … 252
      • ブラック・アフリカ旅行の目的は何か/首都ファースを経てサハラ砂漠に踏み入る
      • マーッリーの王都はどこか/ニジェールの川旅
      • タッシリ・ナッジェールの高地を越える/ファース帰還
  • 結び イブン・バットゥータの旅の虚像と実像 … 271
      • 『大旅行記』の信憑性をめぐる議論/イブン・バットゥータの見た世界像
      • 旅の本来の目的は何か
  • あとがき … 285
  • イブン・バットゥータの旅の年譜 … 289
  • 参考文献 … 293
家島彦一『イブン・バットゥータの世界大旅行』平凡社新書

 と、読んでいて、晩年のイブン・バットゥータがサハラ縦断するくだり。地図の中に、

f:id:mori-tahyoue:20170610150412j:image

 14世紀なのに、「カカオ」って書いてあるー!*1

 本文にはカカオのことなどまったく出てきませんから、これは編集スタッフが用意した地図が19世紀以降のものだったのでしょう。ちょっとびっくりして「ヨーロッパに伝わってなかっただけで、イスラム圏ではもはや?」とかググってしまいました。

*1:カカオ豆、およびチョコレート・ココアは侵略者コルテスが新大陸アステカから持ち帰った

2017-05-07

[][]大森洋平『考証要集』文春文庫 2013 20:56 はてなブックマーク - 大森洋平『考証要集』文春文庫 2013 - 蜀犬 日に吠ゆ

 NHK の時代劇考証ディレクターの用語集。今まで勘違いしていた言葉遣いを指摘されて、目から鱗(新約聖書)の体験でした。

当たって砕けろ(あたってくだけろ)

 これは「go for broke」の訳語で、日本古来の言葉ではないのではないかと言われたが、江戸時代の浮世草子や芝居の台詞に用例がある。

大森洋平『考証要集』文春文庫
あります(あります)

 最近の「戦前ドラマ」では、陸海軍を問わず軍人にやたら「~であります」と言わせたがるが、これは正しくは旧日本陸軍の語法である。元は長州弁で、明治初期の陸軍が長州出身者だったことの名残と言われる。海軍では原則として使わない。(略)うっかり使うと「陸式(陸軍式のこと)はやめろ!」と修正された。

大森洋平『考証要集』文春文庫

 ……修正、ってアレですよねえ(精神注入!)。


グル(ぐる)

 江戸時代にはあるが、もっと古い時代の台詞なら「仲間」「一味」が安全。

大森洋平『考証要集』文春文庫

 これは完全に「group」だと思っていたので、語源が気になるところですね。


郷に入らば郷に従え(ごうにいらばごうにしたがえ)

 「Do in Rome, as the Romans do.」の訳語と思われがちだが、鎌倉期に成立したとされる『童子教』に記載がある。人情に東西の別なし。

大森洋平『考証要集』文春文庫
二都を追う者は一兎をも得ず(にとをおうものはいっとをもえず)

 これは明治一〇年以降の用例のみで、江戸時代にはなかった言葉らしい。時代劇で使うのは危険(北村孝一『ことわざの謎』光文社新書一九頁~)。英語では、"If you chase two rabbits, you miss both."というのがある(Ted Morgan "Valley of Death"p.591)。

大森洋平『考証要集』文春文庫

 などなど

2017-05-06

[][][][] 軽蔑すべき教師~~原田種成(たねしげ)『漢文のすすめ』新潮選書 21:00 はてなブックマーク -  軽蔑すべき教師~~原田種成(たねしげ)『漢文のすすめ』新潮選書 - 蜀犬 日に吠ゆ

 原田種成(たねしげ)『漢文のすすめ』新潮選書を読んでいたら、唐突に東京高等師範出身の先生がdisrespectされていましたので、ここに書き留めておきます。

 昭和七年四月、大東文化学院高等科*1に在籍したときに諸橋『大漢和』の編集メンバーに誘われて、雑司ヶ谷の諸橋教授のお宅に通う。

 メンバーには大東文化学院が多く、のちに刊行されたある書物に、「文理大*2の学生を編纂助手として」とあるところからしてやり玉に挙がる。

第二章 諸橋『大漢和』編纂秘話

(略)「昭和八年からは杉並区天沼(あまぬま)に家を一軒借り、文理大の学生を編纂助手として能率向上をはかった」とあかれているが、「昭和八年」は「昭和十年」の誤り、「文理大の学生」は天沼の編纂所には一人もおらず、すべて大東文化の出身者と在学生だけであったことをついでながら明らかにしておこう。おそらく、高等師範の出身者は漢文の読解力が不足していたkら『大漢和』の原稿作成に関与することはとうていできなかったであろう。資料蒐集(しゅうしゅう)時代に大東文化の学生は『周礼』『儀礼』『公羊伝(くようでん)』や『漢書』『後漢書』等の白文の原書から語彙カードを採取していたのに対し、たとえば、高師の学生だったK氏は先生から少年漢文叢書の返り点送り仮名のついている『論語』『孟子』を与えられて、語彙カードを作った思い出を書いていた――それほどの差違があったのである。

 高師は国漢科であるから、国語と漢文の両方を学習し、しかも就職に有利だからと修身や習字の免許を取るための学習もしていたから、漢文の力はあまり伸びなかったのである。大東文化の学生は、旧制中学時代から漢文が好きで、白文が読める力を持って進学し、更に高度の漢文を専攻したのであるから『大漢和』に引用する原文を読解することができたのである。

原田種成『漢文のすすめ』新潮選書

 なんといいますか、対抗意識を感じる。高師や文理大の学生は当然教授である諸橋先生の教えを直接受けているわけで、「少年漢文叢書」の話を見るに先生が優しく接しているのに対して大東文化の側は腹に一物かかえることになったのでしょうか。

 閑話休題(それはさておき)、原田先生、卒業後もしばらく辞書編纂にかかりきり。ですが生活のためには就職も考えなければなりません。始め明治大学附属中学校につとめます。

第二章 諸橋『大漢和』編纂秘話

 私は将来もずっと教員をしていくならば、明治中学も決して悪くはないが、まず公立中学校へつとめたいと考え、諸橋先生に相談した。すると、先生からちょうど高等師範の教え児の本村伝吉氏が府立十二中の校長をしていて、漢文教師を探しているからと、先生の推薦で十七年一月三十一日、東京府立十二中学校の教諭となった。本村校長は高等教員の免許所持者を教員に集めていたのである。十二中学は間もなく千歳中学と校名変更になった。

(中略)

 そして、十八年の六月ごろ、橋本氏から連絡があった。応召で欠員ができたから群馬師範へ来ないかという。下谷の金杉で生まれ、根岸の小学校から神田の中学、そして九段の大東文化学院と、私は東京を離れて暮らしたことはなく、昭和十五年に水戸中学から学院を通じて招聘があったときも、東京を離れたくなかったので断ってしまったくらいだ。しかし、橋本氏は岳父の恩師であり、私はあれやこれや考えた末、東京を離れる決心をした。官立専門学校に昇格した「師範学校教授」とは歴とした高等官である。私は家族をつれて親類縁者の一人もいない前橋に移り住むことにした。

原田種成『漢文のすすめ』新潮選書

 というわけで転勤。その群馬の話も面白いのですが、今回は転勤の際の所感。


第二章 諸橋『大漢和』編纂秘話

 私の場合、内閣の発令が、いつになるかわからなかったが、千歳中学本村伝吉校長に正式に申し出たところ、校長は何を考えていたのか、私の学級担任も授業科目も全部はずして、図書の整理をしてくれと言う。

 私は赴任の前日まで、心残りのないように精魂籠(こ)めた授業をして中学を去ろうと思っていたのに、その願いは踏みにじられて悔しくてたまらなかった。本村校長は転任が決まった教師は、真面目な授業をしないものと持っていたらしい。彼自身がそのような教師であったのかもしれない。

 本村校長は東京高等師範学校の国漢科出身で、四十代の初めに校長になり、有能な校長と思われていたが、私はかねてよりその教育観に疑問を抱いていた。あるとき校長が漢文の授業を担当したことがあった。その試験の監督を私がしたとき、校長は生徒がやまをかけるから各ページから一字ずつ読み方を出題するのだといった。私はそれを聞いてあきれてしまった。

 私は試験というものは、その範囲の中で一番大切なところ、一生涯覚えておく価値のあるところを出題すべきであると考え、また、実際、私の出題はそれに徹していた。それが教育であると信じている。校長のやり方は、教育効果ということをまったく考えないものであった。私は校長を心の中で軽蔑していた。

 体躯は堂々として豪傑ぶっていたが、もらった葉書を見ると、小さい字で隅のほうにチョコチョコと書いているので、見かけとは違って肝っ玉の小さい人物だと思っていた。

 人を信頼することができない小心な言動にいやになり、彼が勝手に決めた図書の整理などもまったくする気がなかったから、学校へは足を向けず、発令になるまで編纂室に出て辞典の仕事を続けた。

原田種成『漢文のすすめ』新潮選書

 まあ、そりが合わなかったのだなあ、という印象。あと、気に入らないからと学校行かないという豪傑ぶりもどうなのでしょうね?

*1:いまの大東文化大学

*2:高等師範の付属大学(!)

2016-08-14

[][]小寺聡『もういちど読む 山川倫理』山川出版社2011 21:39 はてなブックマーク - 小寺聡『もういちど読む 山川倫理』山川出版社2011 - 蜀犬 日に吠ゆ

 「洞窟の比喩」と「洞窟のイドラ」がいつも混乱する、曖昧な私です。こんばんは。

 山川出版社の倫理を読もうとしましたが、まず「まえがき」の部分を読んで立志の誓いを強化します。

ふたたび倫理を学ぶみなさんへ

 「人間はいかに生きるべきか」「人生はいかにあるべきか」という問いは、私たちが人生で直面するさまざまな問題のなかでも、いちばん基本にある問いといえます。それはまた、昔から古代ギリシアのソクラテスをはじめ、多くの優れた先人が生涯を通じて考え抜いた倫理の根本問題です。そして、この問題に対する先人の答えは、洋の東西を問わず、各人各様といってもよいほどさまざまです。ある人は個人の心のあり方を基準にして「人間の生き方」を考え、ある人は社会全体の福祉を基準にして「人間のあり方」を求めています。また、ある人は倫理的生活の中心を、自分が体験する身近な世界の中に見出し、ある人は現実の世の中を越えた視点から、真実の生き方とは何かを問題にしました。私たちが、こうした先人の真剣な思索の成果を学ぶ際に、もしも、それがただ過去の知識を習得することに終わるならば、倫理を学ぶことほど不毛でつまらないものはないでしょう。私たちが自分自身の心と行動のあり方を反省しながら、人間の生き方・あり方について主体的に問いすすめていくところに、倫理を学ぶ意義があるからです。

 倫理とは何かという質問に、「倫理」という言葉の意味を説明する答え方があります。たとえば「倫」とは「なかま」のことであり、「理」とは「筋道」のことをさしますから、倫理とは要するに人々の永年の経験が積み重なってできあがった、人間集団の規律やルールのことをさすと説明できます。倫理は私たちが他者とともに、人間らしく生きるための道筋を示すものといえます。私たちはこのような人として歩むべき道筋を過去の人びとから受け継ぎながら、未来の新しい時代に即した人間の生き方を探求しなければなりません。

 本書は高等学校の教科書として使われている『現代の倫理(改訂版)』をベースに、一般の読者を対象として明快な記述ながらも内容を深め、人生について思索する手がかりになるように改めました。また、先人の思想を理解する上での手助けになるように、彼らの言葉をコラムとして掲載しています。誰にでも読みやすく、この一冊で、人類史上に登場したおもな思想家たちの考えが把握でき、人類の精神史の全体像と、現代の倫理的課題が一望できる書物です。本書が現代人の一人ひとりにとって、みずからの生き方を考える上での一助となることを願っています。

小寺聡『もういちど読む 山川倫理』山川出版社2011

 あー。読点のリズムが私とは違うのですなあ。だから読みにくかったのか。すこしゆっくり読むのが(わたしにとっての)コツですね。

もういちど読む山川倫理

もういちど読む山川倫理



[][][]室町幕府の成立と南北朝の動乱について復習する(その4) 20:13 はてなブックマーク - 室町幕府の成立と南北朝の動乱について復習する(その4) - 蜀犬 日に吠ゆ

 ちと古い問題集ですが、復習していきます。

室町幕府の成立(Ⅰ)

(3) つぎの文を読み(  )に適語を記入し、下線部の設問に答えよ。

 南朝の( 1 *1)が北朝の後小松天皇に譲位することによって、3代将軍義満は、内乱に終止符をうつことに成功した。それだけではなく、義満は長い間公家政権が保持してきた京都の市政権、とりわけ(1)警察権・民事裁判権や( 2 *2)・土倉などにたいする商業課税権などをしだいに吸収していった。また、諸国に課する( 3 *3)の徴収権なども朝廷より引き継ぎ、全国的な統一政権としての幕府を確立した。1378年、(2)京都室町に壮麗な邸宅を構え、ここで政治をとったので、この幕府を室町幕府という。義満は将軍としてはじめて( 4 *4)という朝廷における最高の官職にのぼり、出家したのちも幕府や朝廷に対し実験を振るった。

 幕府の機構は、このころほぼととのい、鎌倉時代の政治機構を踏襲した政所・問注所・侍方や評定衆がおかれ、( 5 *5)がこれらの機関を統轄し、将軍を補佐した。(5)には(3)足利一門の有力守護が交代で任命された。鎌倉時代に比して、政所や問注所が権限を縮小したのに対し、侍所は京都内外の警備や刑事裁判を取扱う重要な機関となり、その長官は(4)四職から任命されるのが慣例であった。これらの有力大名はもっぱら在京して幕府の中枢を占め、重要政務を決定した。また一般の守護も領国は( 6 *6)に統治させ、自身は在京して幕府に出仕するのが原則であった。


設問(1) 公家政権下ではこの権限はどんな機関が行使していたか。令外の官名で答えよ。*7

  (2) この壮麗な邸宅は何とよばれたか。*8

  (3) この有力守護の姓をすべて記入しなさい。*9

  (4) 四職の姓をすべて答えよ。*10

『日本史総合テスト』山川出版社1998
  • 空欄補充

 1 後亀山天皇…全然わかりませんでした。南朝の天皇には「後」がつくのですよね。南北正閏論については以下に。

 2 「酒に関する商人だよなあ、、」まではわかりましたが、酒屋が出ない、、、

  • 設問

 (3)(4)三管領と四職は完全に混同している上に、あわせて4つしか思い浮かびませんでした。応仁の乱に際しての、お互いの関係は、絶望的ですね。


  • 南北朝合一について
室町幕府

南朝の後亀山天皇(在位1383~92)は義満の呼びかけに応じて京都に帰り、北朝の後小松天皇(在位1382~1412)に譲位するという形で南北朝の合一が実現した。和平の条件として将来は両統が交互に皇位につくと約束されたが、実現はしなかった。幕府は南朝の皇族をつぎつぎに出家させ、子孫を絶った。南朝の人々は深くこれを恨み、南朝の子孫や遺臣の反乱は、応仁の乱ころまで繰り返しおきていた。

五味文彦/髙埜利彦/鳥海靖 編『詳説 日本史研究』山川出版社1998

 これが「一休さん」が紅蓮(ぐれ)てしまった原因であり、義満が一休さんを呼び出しては無理難題をふっかける話につながるわけですね。


  • 南北朝正閏論について
南北朝正閏論

 後醍醐天皇が吉野に去ってから江戸時代の初めころまでは、北朝の正統性に疑問をもったり、南朝の存在をことさらに協調する学者は皆無であった。ところが儒学の名文論の進展から、両者の正閏を問題にする動きが現われた。

 当時の常識をくつがえして南朝正統を主張したのは水戸の『大日本史』で、神器をもつ者が即ち正当な皇位継承者、という考え方を提示した。これを受け継いだのが頼山陽の『日本外史』で、この書は明治の元勲たちに大きな影響を与えたといわれる。明治になると学問的な立場から南北朝並立論が現われ、1910(明治43)年制定の『尋常 日本歴史』も喜田貞吉(1871~1939)らによってこの立場で叙述されている。ところが南朝正当論者が国家主義者と結んでこれを問題視し、国民思想涵養上、南朝の正統を教育すべきであるとした。折からおこった大逆事件とも関連してことは政治問題に発展し、政府は翌年勅裁によって南朝正統を決定、教科書は改訂され、足利尊氏は逆賊と定められた。以後、皇国史観の伸展とともに南朝正統論は不動になり、太平洋戦争を迎える。

五味文彦/髙埜利彦/鳥海靖 編『詳説 日本史研究』山川出版社1998

↓ 以下の商品紹介は、新版

詳説日本史研究

詳説日本史研究

*1:後亀山天皇

*2:酒屋

*3:段銭(たんせん)

*4:太政大臣

*5:管領

*6:守護代

*7:検非違使(けびいし)

*8:花の御所

*9:三管領--斯波、細川、畠山

*10:山名、赤松、京極、一色