蜀犬 日に吠ゆ

2010-07-12

[][]野上浩太郎『現代政治がわかる古典案内』中公新書ラクレ 19:59 はてなブックマーク - 野上浩太郎『現代政治がわかる古典案内』中公新書ラクレ - 蜀犬 日に吠ゆ

 プラトン『国家』から現代を見る部分。

 例の、寡頭制→民主制→僭主制など国家体制が移行する話。

自由がもたらす隷属

 寡頭制の次の段階に来るものとして挙げるのが、民主制国家である。しかしプラトンは、民主制に対しても手厳しい。

 この関連でプラトンの「若者論」が展開される。それは、ひたすら民主主義を享受しているはずの現代の若者と、不思議に通じるところがある。

 *

 まず第一に、そういう(民主制国家の)人たちは自由であり、その国家は、行動の自由と言論の自由に満ちている、そこでは何人も、自分のしたい放題のことをすることが許されている、ということになるのではないか。


 (若者は)〈おそれごころ〉を〈愚かしさ〉と名づけ、不名誉にも追放者として外へ押し出し、〈節制を〉〈男らしくない〉と呼び、泥をぬって追いはらい、〈程をわきまえていること〉や〈秩序ある出費〉は、〈野暮で自由人にふさわしくない〉と説いて、たくさんの無益な欲望と協力しながら、国境の外へ追い出す。…(中略)…そして、〈傲慢〉を〈育ちの善さ〉、〈無政府〉を〈自由〉、〈浪費〉を〈おおらかさ〉、〈破廉恥〉を〈男らしさ〉と呼ぶ。     (『国家』第八巻、田中他訳)

 *

 そして、民主制を崩壊させるのは、「自由だ」とプラトンは断じる。行き過ぎ、節度を失った「自由」は社会を壊してゆく。プラトンの指摘に、現代の日本の姿が重なってくる。

 *

 (子は)自分が自由であることのためなら、両親に恥じる気持ちも怖れもいだかぬことを習慣とする。    (『国家』第八巻、田中他訳)

 *

 そして現代の日本の学校や社会そのものへの指摘と批判としか思えないような発言が出てくる。プラトンの批判の矢を浴びるのは政治だけではないのだ。

 現代の若者たちは、まるで二千数百年前にプラトンが鋭い批判の目を向けたアテネの若者たちと、どこが違うのだろうか。

 東京・渋谷の街や電車の車内で、ぐったりと座り込んだままだったり、大声で携帯電話で話し込んだり、「注意」する大人に殴り掛かったり――。学校では、勝手に教室内を歩き回ったり、大声を発して出て行ったりの「学級崩壊」が続く。反面、どのような政治腐敗や汚職が起きても、デモもなければ抗議集会も開かれない。「怒り」は自分自身の、個人的不快さへの怒りがほとんどだ。

野上浩太郎『現代政治がわかる古典案内』中公新書ラクレ

 野上先生の若者批判は、いわゆる「紋切型」ですね。そのことは置くとして、私にはプラトンの「若者批判」は本当か? という疑問が感じられる引用ですね。そもそも「(若者は)」「(子は)」と、本文にない言葉を訳者が補っているようにも見えますし、もちろんこうして補うことには根拠があるのでしょうけれども、プラトンの指し示す「若者」は、現代でいう「若者」と対応するのでしょうか。

 そもそも、

〈おそれごころ〉を〈愚かしさ〉と名づけ、不名誉にも追放者として外へ押し出し、〈節制を〉〈男らしくない〉と呼び、泥をぬって追いはらい、〈程をわきまえていること〉や〈秩序ある出費〉は、〈野暮で自由人にふさわしくない〉と説いて、たくさんの無益な欲望と協力しながら、国境の外へ追い出す。

 という「古代ギリシアの若者」と

東京・渋谷の街や電車の車内で、ぐったりと座り込んだままだったり、大声で携帯電話で話し込んだり、「注意」する大人に殴り掛かったり――。学校では、勝手に教室内を歩き回ったり、大声を発して出て行ったりの「学級崩壊」が続く。反面、どのような政治腐敗や汚職が起きても、デモもなければ抗議集会も開かれない。

 という「現代の若者」に共通点を見いだすことができましょうか。一方は「自由をはき違えて乱れた価値観をもつ」と内面のこと、もう一方は「傍目に非常識な行動をとる」という外見のことが説明されており、内容的にも対応させられないと思うのです。


 プラトンがいう「自由」が民主制を壊すというのはその通りだと思いますが、現代日本はむしろ経済的理由から崩壊するような気がします。


自由がもたらす隷属

 そして、大人たちは、うっかり注意でもしようものなら、「暴力の報復」がある。それを恐れて、何も言わない。真面目で、おとなしい若者のほうが「多数派」なのだろうが、声を発しないから分からない。

野上浩太郎『現代政治がわかる古典案内』中公新書ラクレ

 そして「大人」たちの暴力はより「おとなしくて力の弱い子どもたち」へ向かう。そっちのほうが問題だと思うのです。

自由がもたらす隷属

 教師のほうは、生徒を怖れて、これにへつらうし、生徒のほうは、教師を蔑ろにする。…(中略)…若者たちは、ことばにおいても、行為においても、より齢老いた人たちを真似て、これと熱心に競い、老人たちは、若者たちの線まで身を落としながら彼らを模倣し、快活さや機知で身をふくらませるのだ。    (『国家』第八巻、田中他訳)

野上浩太郎『現代政治がわかる古典案内』中公新書ラクレ

 ほらあ、プラトン先生のほうが分かってらっしゃる。若者の無責任や野放図は、「自由」を謳歌する老人たちの模倣。老人たちの若づくりの醜さにもきちんと指摘がなされていますよ。しかし野上氏はこれを(引用しておきながら)華麗にスルー。

自由がもたらす隷属

 あまりに行きすぎた自由は、個人と国家とを問わず、行きすぎた隷属以外のどこへも変化しない。


 僭主制とは、民主制以外の国制からあらわれてくるものではないようだ。思うに、極端な自由から、最も大きく、最もはげしい隷属があらわれてくるようだ。   (『国家』第八巻、田中他訳)

 *

 プラトンのこの予言が今の日本に的中しないことを祈るのみだ。

野上浩太郎『現代政治がわかる古典案内』中公新書ラクレ

 祈るのみですか! もっと他にやることあるでしょうに。

 この新書は2002年6月発行ということで、第一次小泉内閣を危険視するような文脈が見てとれますが、まあはずれてよかったよかった。

2010-07-11

[][]久繁哲之介『地域再生の罠』ちくま新書 19:59 はてなブックマーク - 久繁哲之介『地域再生の罠』ちくま新書 - 蜀犬 日に吠ゆ

 第一章の扉が「餃子像」の写真。「宇都宮109」撤退の分析があるとなれば、読みたくなるのは人情でしょう。

地域再生の罠 なぜ市民と地方は豊かになれないのか? (ちくま新書)

地域再生の罠 なぜ市民と地方は豊かになれないのか? (ちくま新書)

 何もかも皆懐かしい(沖田艦長)。

宇都宮市で大型商業施設の撤退が止まらない

 宇都宮市は若者を惹きつける地域固有の文化を有する一方、「どこの街でも欲しがる大型商業施設」の撤退が相次いでいる。特に百貨店の撤退が顕著である。地場資本で百年以上の歴史を有する上野百貨店は2000年に破綻した。同じく地場資本の福田屋百貨店は郊外へ移転する。西武百貨店は2002年に撤退、ロビンソン百貨店も2003年に撤退した。わずか4年で、宇都宮の街中にあった4つもの百貨店が閉店している。

 専門店ではロフトとアムスが早々に撤退している。アムス跡地に誘致した「宇都宮109」は2001年10月に開業したが、4年ももたずに2005年7月に撤退した。また、フードテーマパーク「宇都宮餃子共和国」は2005年7月30日開業したが、なんと11ヵ月後の2006年6月30日に撤退する。1年未満という撤退の速さも驚愕だが、専門家の多くが成功事例と賞賛する地域資源「餃子」をもってしても失敗したことに、関係者の落胆は大きい。

久繁哲之介『地域再生の罠』ちくま新書

 餃子に関しても、資源の蓄積を食いつぶしている感がありありですからねえ。

 そんな宇都宮の、明日はどっちだ(あしたのジョー主題歌)。

109が撤退してなおも大型商業施設を造りたい

 2005年の宇都宮109撤退以降も、宇都宮市の大型商業施設は撤退や業績不振が続いている。そのうえ、「宇都宮表参道スクエア」など新たな建設も進めている。

 この背景には、土建工学者など専門家が、大型商業施設などの箱物を建設・誘致しては成功事例集に「地域再生の起爆剤として、○○ビルが建設された」などと称賛する悪習がある。土建工学者など専門家の成功基準は、箱物の建設、つまり土建行為そのものにある。箱物を造れば成功とみなす彼らは、建設後の箱物が有効活用されているかどうかを検証しない。

久繁哲之介『地域再生の罠』ちくま新書

 つまり、どうでもいいと放り出されてしまったわけですよね。

神を見下す高層ビルは空きだらけ

 失敗理由を考えない「結果だけを急ぐ焦りから導かれた施策」の結果はどうだったのか。宇都宮にぎわい特区認定以降も、宇都宮街中における大型商業施設の撤退と不振は止まらない。特区を使い、急いで建設した大型商業施設はどれも不振を極める。なかでも2007年7月開業の「うつのみや表参道スクエア」の惨状は、地元の市民やマスコミから酷評されている。

久繁哲之介『地域再生の罠』ちくま新書

 これに対して久繁先生は、

神を見下す高層ビルは空きだらけ

「にぎわう再開発ビルにするには、市民ニーズを知るのが最重要課題。(中略)大都市や郊外と差異化を図ることも重要だ」

久繁哲之介『地域再生の罠』ちくま新書

 と言っていますが、市民ニーズを知ったり差異化を図ったりする、その主体は誰なのか。そこまで踏みこんでほしかったです。

 宇都宮市民活動サポートセンターの記事にこうあります。

 http://www.usaposen.net/iitai.html

2007年7月にオープンした「うつのみや表参道スクエア」(8階建て)は、法定再開発事業(根拠法は都市再開発法)である。

 事業主体は再開発事業組合。法律に基づき公益性が高い事業として認定されていることから、補助金(建設費66億円のうち24億円を国、県、市が負担)が支出されている。加えて、宇都宮市は20億円で5、6階の2フロアを購入し、「バンバ出張所」「国際交流プラザ」「うつのみや妖精ミュージアム」等を設置した。総計41億円もの税金が投下された事業であるが、残念ながら入居していたテナント(フィットネスジムなど)が撤退するなど、その先行きが懸念されている。1階のコンビニはそれなりに客は入っているようだが、閑散とした“廃墟”観が漂うビルになってしまっている。ネットワーク型コンパクトシティの創造、中心市街地の活性化や賑わい創出という観点から本事業は必要だったのであろうが、現時点では当初の目的に沿った成果をあげているとは言い難い。

http://www.usaposen.net/iitai.html

 建設に国、県、市の税金、2フロア分のテナントを宇都宮市が維持、こんな官民癒着の運営形態では、そもそも黒字を出そうとか、もしくは地域活性化のために新しいアイディアをだそうという機運も起こらないのが普通でしょう。ついでに同じページを読むと旧新うえの側に建てられる「シティタワー」の建設にも結構な税金が投入されているようで。もはや優遇措置などの施策では企業を誘致できず、現金をばらまいている実情がうかがえます。


 しかし、この久繁先生にばれてしまって恥ずかしいのは、市民の多くが感じている「神を見下す」視点ですね。

ないものをねだり、地域にある資源には無関心

 うつのみや表参道スクエアは、二荒山神社の面前に地元市民の反対に聞く耳をもたずに強引に建設した。二荒山神社は日光二荒山神社と区別するため「宇都宮二荒山神社」との別称がある。宇都宮という地名は、これに由来する。

 二荒山神社は、まさに「宇都宮の顔、心」と言うべき存在である。事実、宇都宮市も策定する多くの計画書の中で「二荒山神社は、まちの顔」と記載している。だが口先ではそう言いながら、神聖な二荒山神社の面前(鳥居右側)に、しかも神社を見下ろす高さで「うつのみや表参道スクエア」を建てた。宇都宮市はさらに、鳥居左側に24階建高層ビルの建設を予定している。「宇都宮の顔、心」と言うべき二荒山神社は、高層ビルで挟み撃ちにされようとしている。

久繁哲之介『地域再生の罠』ちくま新書

 もうされちゃった。

ないものをねだり、地域にある資源には無関心

 宇都宮市が「二荒山神社は、まちの顔」と公言するのは完全に建前で、市民と神様をも見下している姿勢を、宇都宮表参道スクエアは象徴しているように見える。

 もし、神の面前たる地域に箱物をつくるのであれば、施設の外観、とくに高さの配慮は不可欠である。また、施設の内容やテナントは神社の歴史や所縁との調和も配慮しなければならない。そういう配慮が少しでも感じとれる計画・建設であれば、宇都宮表参道スクエアに対する地元住民の反対の声や感情も少しは和らいで、今よりは利用されていただろう。

久繁哲之介『地域再生の罠』ちくま新書

 中心市街地の調和を言うのであれば、うつのみや表参道スクエアの東隣にある、昔の「ゴー×タクビル」の考察も欠かせないところではありますが、久繁先生は敢えて一言も触れていませんね。私も一言触れただけでSAN値がぐんぐん下がってきたので触れるのはよします。

 宇都宮二荒山神社は、たしかに古く(西武百貨店が出店した1970年代)から「たたりなす神」として有名で、パルコ建設の時も敷地の一部を下社として明け渡させた?(詳細知らず)くらいですが、市役所が援助して建設する建物が神を見下したばあい、その怒りがどこまで波及するのか考えるだに恐ろしいものがあります。

ないものをねだり、地域にある資源には無関心

 根本問題を考慮しないで、失敗が続いてもひたすら大型商業施設の建設・誘致を繰り返す思考は理解に苦しむ。

久繁哲之介『地域再生の罠』ちくま新書

 だから、税金を投入させるという、楽な方に、短期的な利益を求めた結果が今のような状態なのではないかと思います。儲かるなら税金じゃなくてもいいけど、一般のお客さんにサービスを提供するのには不断の努力が必要で、たいへんですからね。

 久繁先生と私の意見の違う部分は、先生が言うような土建関連は箱物を造ればいいと思いこんでいて……という批判には、私は「土建業者はそれで利益を出すのだから正当な活動内容だ」と考えています。それでいいとは思っていませんが、批判すべきは、そうした効果のない再開発事業を繰り返す行政の側であり、都市計画の段階できちんと市民の声を聞くような仕組みを構築することが必要なのではないか、と思います。

 そこでまた、話はもどるのですがそういう仕組みを構築する「主体」はいったい誰なのか。「市民と地域が豊かになる」といいますが、そうして手を取りあって協力し合える「市民」というのは実際のところ存在するのでしょうか。市街地であれば市街地の「共同体」を取り戻すことは難しそうです。

 結論部分は極東ブログさんの受け売り。

[書評]地域再生の罠 なぜ市民と地方は豊かになれないのか?(久繁哲之介)

読後、私が思ったのは、この「使える」提言を「使う」ためには、地域コミュニティーが生き返ることが前提になるだろうということだ。それは鶏と卵のような循環になっている。提言が目指すものこそ、地域コミュニティーの再生だからだ。もう一点思ったのは、本書が言及していないわけではないのだが、この難問には地域における若者と高齢者の再結合が問われていることだ。地域の若者の現実的なニーズと高齢者のニーズをどう調和させるか。そしてその二者の背景にある巨大な失業の構造はどうするのか。問題の根は深い。

『極東ブログ』

2010-04-27

[][]オルテガ『大衆の反逆』中公バックス 17:27 はてなブックマーク - オルテガ『大衆の反逆』中公バックス - 蜀犬 日に吠ゆ

第一部 大衆の反逆

1 密集という事実

大衆が社会的勢力の中枢に躍りでたことである。本来の言葉の意味からいって、大衆はみずからの生存を管理するべきでないし、また、そんなことはできない。まして、社会を支配するなどは問題外である。だから、右の事実は、民族、国家、文化が忍びうるかぎりの深刻な危機に、ヨーロッパが現にさらされていることを意味する。

オルテガ 寺田和夫『大衆の反逆』中公クラシックス
大衆の反逆 (中公クラシックス)

大衆の反逆 (中公クラシックス)

2009-11-10

[][]服部圭郎『道路整備事業の大罪』新書y 洋泉社 20:23 はてなブックマーク - 服部圭郎『道路整備事業の大罪』新書y 洋泉社 - 蜀犬 日に吠ゆ

 「大罪」などと聞くとわたしなどはすぐにソドムでありゴモラであり天が裂け地は崩れ人はみな塩の柱となって奈落へ落ちていくようなイメージを持ってしまうのですが、それほどでもなかったので安心しました。

道路整備事業の大罪 ~道路は地方を救えない (新書y)

道路整備事業の大罪 ~道路は地方を救えない (新書y)

 では、道路を造ると何が問題なのか、という話。

第四章 道路がもたらす八つの弊害

道路整備がもたらす負の側面。

 前章では、道路整備がもたらしてくれるはずの効果が必ずしも具体化していないことを、事例を挙げて説明してきた。本章では、道路整備がもたらす負の側面を中心に、その弊害を次の八つの観点から整理していきたい。


  1.  自動車への過度の依存体質がもたらす移動の不自由
  2.  商店の喪失などの生活環境の悪化
  3.  コミュニティの空間的分断と崩壊
  4.  子どもの遊び空間の喪失
  5.  自動車優先型の都市構造がもたらす非効率性
  6.  失われる風土と地域アイデンティティ
  7.  観光拠点だった場所が通過地点になることで生じる観光業の衰退
  8.  家計への負担の増大
服部圭郎『道路整備事業の大罪』新書y 洋泉社

 キリスト教の「大罪」とは合わせるつもりなさそうですね。

 行政が道路に特化して整備を推進している状況がおかしいというのはその通りでしょうけれども、なんだか道路をなくせば薔薇色の未来という含みが見て取れるのには違和感を覚えました。悪いのは道路だけではないでしょう。


 この本で面白かったのは、自動車優先社会の破綻やあたらしい公共交通の取り組みなど、世界で始まっている交通の自動車からの重心移動でした。服部氏はそちらの方面に関心がないようで記述がありませんが、もしこうした「自動車離れ」がこれからも広まっていくなら、アメリカのGM再建や日本のエコカー減税などは、そもそもの出発点が間違っていたことになるのではないでしょうか。

第三章 道路が地方を救えない理由

世界で破綻している自動車優先型の都市②――ブラジリア

 ブラジルの首都・ブラジリアも、自動車優先型都市からの方向転換を図っている。

 ブラジリアは、建築家ルシオ・コスタによって一九六〇年に建設された。その都市設計は、机上で考えられた理想論を具体化したもので、都市構造は鳥が羽を拡げたような形をしており、その羽の部分に羽の部分に人工湖を配している。鳥の頭の部分には国会議事堂や最高裁判所などの行政施設が設けられ、羽の部分に住宅や各国の大使館が配置されている。さらに建物は高層ビルとし、オープンスペースを多く取れるようにした。そして、市内の移動手段は自動車を前提とした。ブラジリアは、当時の都市計画家の多くが理想と思う要素を幕の内弁当のように盛り込んでつくられた都市なのである。

 このブラジリアがつくられて四〇年以上経って、どのような状況になっているかというと、正直、悲惨の一言である。なにしろ歩けない。歩くことを前提に都市がつくられていないので、歩行者の動線はけもの道以上のものがないからだ。普通の都市は高速道路のように幅が広く、しかも横断歩道も歩道橋も何もないので、道路の向こう側に行くには渡るしかないのだが、自動車の走行速度も高速道路並みなので、ものすごい恐怖を覚える。高齢者や子どもたちにとっては、この街を歩くということはほぼ不可能である。

 当初は、信号すらも設置されなかった。これは、出発地から目的に着くまで自動車は止まらない、といったコンセプトで設計されたからだ。普通の道路でもクローバー型の立体交差となっている。だが、円滑に自動車交通をさばこうとして設置された立体交差が、今では交通のボトルネックとなって渋滞を引き起こしている。

 ヒューマンスケールなどとは無縁の都市構造をしているから、隣のビルに歩いていくのにも広大な駐車場を越えて一〇〇メートルは歩かなくてはならない。しかも、このような都市空間を二〇世紀半ばに推奨したル・コルビジェやルシオ・コスタが描いたスケッチには、高層ビルの間には緑のオープンスペースが絨毯のように敷かれていたが、ここブラジリアでは、それらは自動車によって占拠されてしまっている。

 ただし、ル・コルビジェたちが提唱したように、これらのオープンスペースを設けたことで、さんさんと輝く太陽による日光は十分に地面に到達しているので、歩いていると日射病になってしまう。人々がたむろして楽しむ広場のような空間がまったくない、おそるべき機能主義的な都市なのである。

服部圭郎『道路整備事業の大罪』新書y 洋泉社

 ブラジリアは現在信号の設置など都市計画の見直し中だそうです。

 よその国の失敗談で笑っていられるうちは、楽しいのですけれども。

2009-09-24

[][]かたくなになる心~~林達夫『歴史の暮方 共産主義的人間』中公クラシックス 19:45 はてなブックマーク - かたくなになる心~~林達夫『歴史の暮方 共産主義的人間』中公クラシックス - 蜀犬 日に吠ゆ

 高等遊民はたまに大衆との距離に愕然とする。

時代の暮方――時代と文学・哲学

 時代が大きく膨れ上がったときに垣間見せるbetise*1ないしsottise*2の救い難き底知れなさに衝撃した人間のこころ暗さ! それに抵抗したりそれを弾劾したりする気力も挫けてしまう。私はますます自分が犬儒的(シニック)になり、つむじが曲ってゆくのをどうすることもできない。同じく心を動かされていても、人々と私とでは精神的風土がまるで違うのだ。人なかにいると、私はふと自分が間諜のような気がして来て、居たたまれなくなって席を立ちたくなることがある。何の共感もない。まったく人とは別のことを感じ、また考えているのだから。

 こうして私は時代に対して完全に真正面からの関心を喪失してしまった。私には、時代に対する発言の大部分が、正直なところ、空語、空語、空語! としてしか感受できないのである。私はたいがいの言葉が、それが美しく立派であればあるほど、信じられなくなっている。あまりに見え透いているのだ。私はそんなものこそ有害無益な「造言蜚語」だと、心の底では確信している。救いは絶対にそんな美辞麗句からは来ないと断言してよい。

 流れに抗して、溺れ死することに覚悟をひそかにきめているのである。私は欺かれたくない。また欺きたくもない。韜晦してみたところで、心を同じうする友のすがたさえもはや見別けがつかない今となっては、どうしようもない。選良も信じなければ、多数者も信じない。みんなどうかしているのだ。(あるいはこちらがどうかしているのかも知れない。)こんな頼りにならぬ人間ばかりだとは思っていなかった。私のほうが正しいとか節操があるとかいうのでは断じてない。ありのままの人間とは、だいたいそんなものかも知れないと思わぬでもない。それを愛することがどうしてもできないのだ。それと一緒になることがどうしてもできないのだ。偏狭なこの心持がますます険しくなってゆくのを、ただ手を拱いて眺めているばかりである。


 私がこの世紀のドラマになにを見たかといえば、最も悲惨な人間墜落の comedie humaine*3 だけである。人目を打つかも知れない他の光景などはほとんど目にもとまらぬほど、心の網膜にそれだけが強く焼きつくように映って片時も離れない。歴史がのっぴきならぬ賭であることは私とて知っている。しかし堪らないのは、その一六勝負を傍から眺めながら、それに寒々とした懐中物を賭けて固唾を飲んでいるお調子者である。私は山師たちの必ずしも排斥者ではない。だがケチな山師根性だけはどうにも我慢がならない。哲学とか文学にも charlatanisme があってもよいと思う。だが、今日のそれは? 「誠実」とは由来、山師根性とは切っても切れぬ悪縁のあるものだ。

 私思うに、現代のような逆説的時代には、真の誠実は絶対に誠実らしさの風貌はとりえない。現代のモラリストは、事の勢い上、不可避的にイモラリストとなる。残念ながら、現代日本では、イモラリスト的な風貌をしていたと思われた思想家や作家までが最近ケロリと申し分ないモラリストの姿勢に扮装更えしてしまっている。これも日本的特殊性として称讃すべきことの一つであろうか。

林達夫『歴史の暮方 共産主義的人間』中公クラシックス
歴史の暮方 共産主義的人間 (中公クラシックス)

歴史の暮方 共産主義的人間 (中公クラシックス)

*1:betize:(名)1愚かさ、ばかさかげん、2ばかげた言動 (母里註)

*2:sottise:(名)1愚かさ、2愚言、愚考(母里註)

*3:comedie humaine:人間喜劇? (母里註)

2009-05-13

[][]バカとバカ~~竹内薫『理系バカと文系バカ』PHP新書 20:09 はてなブックマーク - バカとバカ~~竹内薫『理系バカと文系バカ』PHP新書 - 蜀犬 日に吠ゆ

理系バカと文系バカ (PHP新書)

理系バカと文系バカ (PHP新書)

 お遊びというかおまけで付いてくる文系理系バカバカチェックで、私は「ブバ1」「リバ7」でした。圧倒的。

 次にあげた10の質問に「YES」「NO」で答えていただきたい。

  1. 血液型診断や占いが気になって仕方ない
  2. 取扱説明書は困った時にしか読まない
  3. たいていのことは「話せば分かる」と信じている
  4. ダイエットのために「カロリーゼロ」のドリンクをガブ飲みしてしまう
  5. アミノ酸、カルニチン、タウリンなどのカタカナ表示にすぐ飛びつく
  6. 「社会に出ると因数分解なんて必要ないよね」と言ったことがある
  7. 「インド式算数」を学ぶより、電卓を使えばいいと思っている
  8. 何でも平均値で物事を判断してしまう
  9. 抗菌コートのトイレじゃないと入りたくない
  10. 物理学と聞いただけで「難しくて分からない」と思ってしまう

 結果はどうだったろう? もちろん、YESが多いほど「文系バカ」である。

竹内薫『理系バカと文系バカ』PHP新書

 では、次の質問に「YES」「NO」で答えていただきたい。

  1. できれば他人と深く関わらないで生きてゆきたい
  2. 新型、最新テクノロジーの商品を買うために徹夜してでも並ぶ
  3. 相手が関心のないことを延々と話す――女性との会話も下手
  4. 独善的で、いつのまにか相手を怒らせている
  5. 「もっと分かりやすく説明して」と、よく言われる
  6. 分からないことは、何でもネットで検索してしまえ
  7. 感動するポイントが人とずれている
  8. 文系より理系のほうが人間として「上」だと信じている
  9. UFOや心霊現象について語ることは犯罪に近いと思う
  10. 意外とオカルトにハマりやすい

 結果はどうだっただろう? あてはまるものが多いほど、「理系バカ」である。

竹内薫『理系バカと文系バカ』PHP新書

 9と10は相反すると思うので、10点満点の人って居ないのではないでしょうか。つまりチェックとしての信頼性に疑問が……あくまでお遊びですからいいんですけどね。


 本書の眼目は、「文系と理系とが存在する理由」。

 『橋爪大三郎の社会学講義2』(橋爪大三郎著・夏目書房)によると、日本における「理系」と「文系」の定義は、明治時代に旧制高校が作ったものだという。黒板とノートだけで学べる「文系」に比べ、「理系」は実験設備にお金がかかる。「お金のかかる学部を理系」「お金のかからない学部を文系」と分類し、お金のかかる学部の生徒数は絞らざるをえなかった。そこで数学の試験をして、「理系」と「文系」を振り分けたということだ。

竹内薫『理系バカと文系バカ』PHP新書

 というわけで、「数学ができないか文系」というのが「文系の王道」であることが分かります。